近況報告せよと言うミキシーからのおしかりで人のところに書いたものでかなりマニアックですけど載せます。
その1、(続きはそのうち)
1960年当時の音楽産業の中心はなんと言っても東海岸だった。中心はニューヨーク、それに比較的近くのボストンによりアカデミックな音楽シーンがあり、シカゴがそれに続くという状況だった。
西海岸はというと、やはり中心はサンフランシスコ(バークレーを含む)だった。クリス・ストラックウィッツのアーフリー・レコードもシスコの近くだった(当時の場所は知らないが、3年ほど前にお店に言ったら本人はしごく元気そうだった)。ロスアンジェルスには映画会社のワーナー・ブラザースから独立したW-B Recordsがあったが当初はポップスやサウンドトラック中心で、あまりアカデミックな動きはなかった。西海岸の老舗レコード会社のキャピタル・レコードもビートルズが出てくる前まではポップスとカントリー、それにランディー・ニューマンのおじさんのアッルフレッド・ニューマンなどの書く映画音が中心のレコード会社だった。ただフォーク界最大のヒット曲と
なったキングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」はサンフランシスコで結成されたグループがロスのキャピタル・レコードからリリースしたレコードだった。
というような状況の中、カレッジフォーク以外のトラディショナルフォーク、ブルース、ブルーグラスといったルーツ音楽は東海岸中心に広まって行った。その中心地がグリニッチビレッジのワシントン・スクエアーだった。そこでは週末に多くのニューヨーク在住のアーティスト/ミュージシャンが集まりジャムをして情報交換をしていた。
バンジョーに関して言えば当時最高のプレーヤーといわれたロジャー・スプラング(当時、ニューヨークでただ一人、スクラッグス・スタイルのスリーフィンガースタイルのバンジョーが弾けたという人。シャンティボーイズ/フォークウエイズにバンジョーのレコード有り)、エリック・ダーリング(タリアーズ〜ウイーバーズ〜ルーフトップシンガース)、ディック・ワイズマン(ジャーニーメン)、エリック・ワイズバーグ(グリーンブライアー・ボーイズ〜タリアーズ)等が有名で、ほとんどのプレーヤーはアール・スクラックスを生で見た事さえなかったと言う。
そういう中でトラディショナルな音楽をニューヨークに紹介したのが、『Friends Of Old Time Music』 (彼らがやったコンサートの未発表音源が聴ける3枚組CD集『Friends of Old Time Music: The Folk Arrival』がスミソニアン・フォークウェイズから出ている)という組織だった。1957年にグリニッチビレッジに開店したフォークローセンターというフォーク専門のお店の経営者、イージー・ヤング、プロモーターで後にジュディ・コリンズ他のマネージャーになるハロルド・レーベンソル、当時若手のフォークローリストでニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ(NLCR)のジョン・コーヘン、グリーンブライアー・ボーイズのラルフ・リンズラー他の人達が中心になってFOTMでドック・ワトソン、ロスコー・ホルカム、フレッド・マクダウエル、ビル・モンロー、メイベル・カーター、ミシシッピ・ジョン・ハートといった、当時南部以外ではライブをやった事のない人達のコンサートをニューヨークでやった。
2008年12月04日
2008年10月11日
仮装大賞とノーベル賞
仮装大賞は大好きで機会があれば必ず見る。今もダイジェスト版を見終わったところだ。仮装大賞の面白さの一番はなんと言ってもアイディアの素晴らしさとそれをどういう風に具体化するかというところににある。僕は特にばかばかしいやつが好きでこんな事やるかというのが好きだ。これって今の教育制度の真反対にあるようなもので人の考えないようなあっと驚くアイディアが面白いのであって、人と同じ事をやらないといじめにあうような今の若者の世界とは正反対なのだが、結構多くの若者や子供が突拍子もない事を考えて数分のパーフォーマンスに賭けている。
今年のノーベル賞も人のやらない事をこつこつとやった4人の日本人の先生方達が受賞した。なぜもっと早くと言う疑問は残るのだが、あれって昔だったから研究に専念できたのかなあ?今だったら友達や先生にばかにされて落ちこぼれの烙印を押されてしまうのではないかな?
益川先生だったか,今の教育制度に苦言を呈していらっしゃったが、今の日本の教育制度が間違っているのではと言う事が長い事言われて来て、こうしてノーベル賞受賞者の先生にそこを指摘され何も言えない文部省や親達もそろそろ考えを変えてはどうでしょう。そして子供達に人と違う事をやっても良いんだよといってあげたらどうでしょう。
今年のノーベル賞も人のやらない事をこつこつとやった4人の日本人の先生方達が受賞した。なぜもっと早くと言う疑問は残るのだが、あれって昔だったから研究に専念できたのかなあ?今だったら友達や先生にばかにされて落ちこぼれの烙印を押されてしまうのではないかな?
益川先生だったか,今の教育制度に苦言を呈していらっしゃったが、今の日本の教育制度が間違っているのではと言う事が長い事言われて来て、こうしてノーベル賞受賞者の先生にそこを指摘され何も言えない文部省や親達もそろそろ考えを変えてはどうでしょう。そして子供達に人と違う事をやっても良いんだよといってあげたらどうでしょう。
2008年10月03日
Pen
Penです。雑誌です。万年筆ではありません。僕はpenという雑誌をほとんど毎号買っている。理由は安いから。だいたい500円か600円。広告が多いのはこの値段からしてしょうがない。今回はピカソの特集、600円でピカソのアップデートされた情報がこれだけ集められのは多分penしか無い。今回は永久保存版ということで普段よりさらに力が入っている。ピカソの最新情報を世界からこれだけ集めるのは人、金と労力は相当かかったに違いない。カラーもふんだんに使って下手なピカソ本より内容は充実している。それでも600円と言うのが嬉しいではないですか。またPenの通常の記事としては冒頭の世界各地の裏情報,超仕事人といった記事も面白い。また今宵も一杯,笑う食卓といったエッセイも毎号楽しみにしている。特に立石敏雄さんの笑う食卓は同じ世代(多分)として共感する部分があっていつも真っ先に読む。僕は広告はほとんど飛ばして見ないので広告主にはあまり良い読者ではないかもしれないがこの広告があってこの値段なのだろうという事で広告に対してネガティブな考えは無い。値段だけ高くて内容の無い雑誌が多い中、Penにはこれからも頑張って欲しいと思う。
2008年09月16日
スティール・ギター
先日古くからの友人の諸星兄弟が参加しているカントリーバンドを聞きに赤坂へ行ったのだが(兄はテレビでコメンテーターをやっていて、弟は今上映中のレス・ポールの伝記映画などを配給している会社に勤めている、この映画すごく面白いのでぜひご覧になってください)そこでこれまた古い友人の野坂氏にあって以前日記にも書いたライ・クーダーのスティールギター好きの事やバック・オーエンスの事を話した。実は僕自身スティールの事はあんまり良く知らなくてあたかもビグスビーが最初のスティールギター製作者の様に書いてしまったが実はラップスティールはフェンダーの方が早く発売してたという事を野坂氏に指摘されてしまった。レオフェンダーはそのスティールを元にエレキギターを作ったという事も教わった。(もしかしてこれって常識?)という事はリッケンバッカ−なんかももビグスビーより早いのかなあ?ビグスビーはメカ好きだったという事をどこかで読んだことがあったのでスティールギターは彼が開発したと思っていた私の勘違いでした。訂正します。
確かにペダルスティールはビグスビーが開発したらしいが今となってはそれも確かではない。出来ればどなたか簡単なスティールギターの歴史を書いてください。それにしてもカントリー、ハワイアン、果てまたベトナムのキム・シンさんまでスティールの音色ってなぜか郷愁を誘うと思いませんか?
そんな音が聞けそうなコンサートが10月3日に吉祥寺の曼荼羅2であるそうです。出演は駒沢&田村のスティールギタープレーヤーズ。詳しくは
http://www.myspace.com/gentamuraまで。
確かにペダルスティールはビグスビーが開発したらしいが今となってはそれも確かではない。出来ればどなたか簡単なスティールギターの歴史を書いてください。それにしてもカントリー、ハワイアン、果てまたベトナムのキム・シンさんまでスティールの音色ってなぜか郷愁を誘うと思いませんか?
そんな音が聞けそうなコンサートが10月3日に吉祥寺の曼荼羅2であるそうです。出演は駒沢&田村のスティールギタープレーヤーズ。詳しくは
http://www.myspace.com/gentamuraまで。
2008年09月10日
3614 Jackson Highway
古い資料を整理していたらこんな写真が出て来た。多分ダニー・フリッツの家に泊めてもらった時に彼がくれた写真だ。南部サウンドが好きな方ならここが最初のマッスルシュオールズスタジオがあった所だと分ると思う。確かシェールのソロアルバムがこのスタジオの最初のセッションで、ジャケットにもスタジオの前で撮られた写真が使われていたはずだ。プロデュースは以前に日記に書いた事のあるジェリー・ウエクスラー,エンジニアがトム・ダウトだったと思う。ダスティー・スプリングフィールドのダスティ・イン・メンフィスと並んで当時のアトランチックレーベルのというより多分ジェリーの作戦で(もしかしたらアーチストが南部サウンドを希望したのかも知れないが)有名シンガーの南部レコーディングのハシリだった。
この写真はダニーのProne to leanと言うアルバムのときの写真だと言っていたから1974年だ。左からトニージョー、ダニー、クリストファーソン、ジョン・プラインとダン・ペン。皆若くて特にダン・ペンは随分とスリムだ。
僕はダニーにここへ連れて行ってもらって写真を撮ったのだがそれは見つからなかった。その頃はクラブだったか練習スタジオになっていて中には入れなかった。こんなメンツでライブが出来たら最高だなとずっと思っている,もちろんバックはマッスルシュオールズのミュージシャンだ。何人かは亡くなったがダニーの体調の良い時にぜひやりたいと思っている。出来るかな?

この写真はダニーのProne to leanと言うアルバムのときの写真だと言っていたから1974年だ。左からトニージョー、ダニー、クリストファーソン、ジョン・プラインとダン・ペン。皆若くて特にダン・ペンは随分とスリムだ。
僕はダニーにここへ連れて行ってもらって写真を撮ったのだがそれは見つからなかった。その頃はクラブだったか練習スタジオになっていて中には入れなかった。こんなメンツでライブが出来たら最高だなとずっと思っている,もちろんバックはマッスルシュオールズのミュージシャンだ。何人かは亡くなったがダニーの体調の良い時にぜひやりたいと思っている。出来るかな?

2008年09月07日
小さいスピーカー
この間メインのスピーカーのクオードを師匠1に預けて代わりにロジャースのLS3/5Aをもう一人の師匠2から借りて来て今はそれで聞いているのですが,以前師匠1からお借りしたpentachordと言うこれも小さなスピーカーを(もしかしてこういうのはブックシェル型と言うんですか?)並べて聞き比べている。イヤー,小さなスピーカーも良いですね。前はそんなに思わなかったのですがpentachordが凄く良いのです。以前はクオードのESLの陰に隠れていたからか,それともちゃんと聞いていなかったせいか,今になってその素晴らしさに感激しています。Eddi Readerとか、ノラジョーンズといった女性シンガーが特に良いです。もちろんLS3/5Aも良いですよ。こういう小さいスピーカーをleakで聞いたらどうなるのか試したくなってしまった。こうなったら長年の夢であるJR-150を聞きたいな。BBさん一度聞かせてください。師匠方そういう事で楽しんでおります。ESLが戻るまで十分楽しめそうです。
2008年08月27日
鎌倉で浜徳太郎展を見る。
さて翌日はO氏と奥さんが作ってくれた朝食を食べた後O氏と二人で鎌倉自転車散歩としゃれてみた。
さすが鎌倉の自転車。サビでブレーキが大きな音をたてる。それでもおかまいなしに二人していろいろなとこを回った。
まずは昨日いけなかった浜先生の写真展をやっているお店へ。そこは佐助にあるブンブン紅茶店と言うお店でオーナーの方が僕が一番欲しいと思っているランチャのオーレリアをもっていらっしゃる。それも実物は見た事がないがラリー仕様みたいだ。また以前にメールのやり取りをした時に浜先生の写真展をやりますといってらしたのでそれもぜひ見たかったので訪ねてみた。おいしいイギリス風の紅茶を飲みながら浜先生の車の写真を見た。解説もあってとても楽しめた。そうしたら今日浜先生の息子さんが来て先生の車について話をしますよと聞いたので狭山に帰る前によって行こうと思った。その後O氏と二人で葉山マリーナまで走ったり、友人のK氏宅を訪ねたり、バンクの隣にあるしゃれたお店にもよってO氏宅に戻ったが、鎌倉は自転車で回るのにちょうど良いサイズの街だ。ちょっと休んで,江の電で七ヶ浜へ行きO氏お気に入りのイタリア料理店へ。江の電の駅のすぐそばの小さなお店だが、そこでおいしい遅いランチを食べてまた江の電でO氏宅へ戻った。
時間になったのでO氏宅を出てブンブンへ行った。そんなに大きなお店ではないがかなりの人が集まっていた。
そこではランチャの事に詳しい方にも紹介していただいた。その会の詳しい事はいろいろな方が御書きなので省略するが、浜さんの二時間半ほどのお話で僕は高校生の時代へタイムとリップさせていただいた。そしてすごく幸せな気分で狭山まで帰った。
その浜先生と僕の事を少し書いてみたい。
浜先生の事を初めて知ったのは僕が高校生になるので親が定期購読して良いといってくれて購読を始めたモーターマガジンと言う雑誌だった。その最初にとったモーターマガジン、1960年の2月号は僕にいろんな意味で大きな影響を与えてくれた。この号の特集が”炉端の楽しみ、自動車エンスージストの横顔”と言う記事で,世の中にはこんな人達がいるんだと中学生の僕は驚いた。そのエンスージアストと言う言葉はいまでこそエンスーと略されて多くの人が使っているが、こんな言葉を知らなかった中学生にとっては初めて聞く言葉だった。辞書でensu---と言う風に引いていっても出てこない。その後に enthuse,enthusiasm,等と言う言葉が見つかり,その名詞型でenthusiast(熱心家)などと言う妙な言葉が見つかり、なるほどこの人達は自動車に夢中な人達なんだと言うことがわかった。その特集の書き手は浜先生を始めとして高岸清、小林彰太郎、五十嵐平逹といったその後の自動車雑誌で原稿を書いていらっしゃる方達だった。
その12人の自動車熱心家が語る話は、カタログ、ミニチュアカーなどの収集、修理、レストア,写真撮影などそれぞれの好みが出てとても面白い記事だった。その中に浜先生のお宅にあるある古い自動車群の写真が載っていた。あれは確かランチア・ラムダやドラージュ、ブガッティ,イスパノスイザといった初めて聞く名前の車ばかりだった。その中で僕が知っていたのはロールスロイスだけだった。その後高校へ入学した僕は同じ自動車好きの友人と、この家へいって自動車を見せてもらおうよといろいろ手を尽くして浜先生の事を調べたが今の様に情報が簡単に手に入らず,やっと友人のお兄さんが先生は三鷹に住んでいるらしいと言う情報を教えてくれた。そこで僕らは三鷹駅で降りて交番で聞いたりタクシーの運転手に聞いたりして半日ほど探したが、とうとう見つけられなかった。
その2月号でもう一つ僕にとって重要な記事はランチャ・フラミニアの記事だった。
当時ピニン・ファリナの名前を知っている人はそういなかったはずだと思うが、彼のデザインしたフラミニアが輸入され特集されていたのだ。子供心にかっこいい車だなと思い五十嵐平逹さんの自動車形態ノート(この記事もその後ずっと愛読していた)にも載っていたような2トーンに塗り分けたフラミニア(写真はフロリダか)を将来買いたいなと思った。
話がすこしそれてしまったが,僕は浜先生を通して,古い車に対する興味を持った事は間違いない。そんな意味では偶然に息子さんの浜さんのお話が聞けた事はとても嬉しかった。それが出来たのもOさん宅へ行く事になったからでOさんに重ねて感謝。
さすが鎌倉の自転車。サビでブレーキが大きな音をたてる。それでもおかまいなしに二人していろいろなとこを回った。
まずは昨日いけなかった浜先生の写真展をやっているお店へ。そこは佐助にあるブンブン紅茶店と言うお店でオーナーの方が僕が一番欲しいと思っているランチャのオーレリアをもっていらっしゃる。それも実物は見た事がないがラリー仕様みたいだ。また以前にメールのやり取りをした時に浜先生の写真展をやりますといってらしたのでそれもぜひ見たかったので訪ねてみた。おいしいイギリス風の紅茶を飲みながら浜先生の車の写真を見た。解説もあってとても楽しめた。そうしたら今日浜先生の息子さんが来て先生の車について話をしますよと聞いたので狭山に帰る前によって行こうと思った。その後O氏と二人で葉山マリーナまで走ったり、友人のK氏宅を訪ねたり、バンクの隣にあるしゃれたお店にもよってO氏宅に戻ったが、鎌倉は自転車で回るのにちょうど良いサイズの街だ。ちょっと休んで,江の電で七ヶ浜へ行きO氏お気に入りのイタリア料理店へ。江の電の駅のすぐそばの小さなお店だが、そこでおいしい遅いランチを食べてまた江の電でO氏宅へ戻った。
時間になったのでO氏宅を出てブンブンへ行った。そんなに大きなお店ではないがかなりの人が集まっていた。
そこではランチャの事に詳しい方にも紹介していただいた。その会の詳しい事はいろいろな方が御書きなので省略するが、浜さんの二時間半ほどのお話で僕は高校生の時代へタイムとリップさせていただいた。そしてすごく幸せな気分で狭山まで帰った。
その浜先生と僕の事を少し書いてみたい。
浜先生の事を初めて知ったのは僕が高校生になるので親が定期購読して良いといってくれて購読を始めたモーターマガジンと言う雑誌だった。その最初にとったモーターマガジン、1960年の2月号は僕にいろんな意味で大きな影響を与えてくれた。この号の特集が”炉端の楽しみ、自動車エンスージストの横顔”と言う記事で,世の中にはこんな人達がいるんだと中学生の僕は驚いた。そのエンスージアストと言う言葉はいまでこそエンスーと略されて多くの人が使っているが、こんな言葉を知らなかった中学生にとっては初めて聞く言葉だった。辞書でensu---と言う風に引いていっても出てこない。その後に enthuse,enthusiasm,等と言う言葉が見つかり,その名詞型でenthusiast(熱心家)などと言う妙な言葉が見つかり、なるほどこの人達は自動車に夢中な人達なんだと言うことがわかった。その特集の書き手は浜先生を始めとして高岸清、小林彰太郎、五十嵐平逹といったその後の自動車雑誌で原稿を書いていらっしゃる方達だった。
その12人の自動車熱心家が語る話は、カタログ、ミニチュアカーなどの収集、修理、レストア,写真撮影などそれぞれの好みが出てとても面白い記事だった。その中に浜先生のお宅にあるある古い自動車群の写真が載っていた。あれは確かランチア・ラムダやドラージュ、ブガッティ,イスパノスイザといった初めて聞く名前の車ばかりだった。その中で僕が知っていたのはロールスロイスだけだった。その後高校へ入学した僕は同じ自動車好きの友人と、この家へいって自動車を見せてもらおうよといろいろ手を尽くして浜先生の事を調べたが今の様に情報が簡単に手に入らず,やっと友人のお兄さんが先生は三鷹に住んでいるらしいと言う情報を教えてくれた。そこで僕らは三鷹駅で降りて交番で聞いたりタクシーの運転手に聞いたりして半日ほど探したが、とうとう見つけられなかった。
その2月号でもう一つ僕にとって重要な記事はランチャ・フラミニアの記事だった。
当時ピニン・ファリナの名前を知っている人はそういなかったはずだと思うが、彼のデザインしたフラミニアが輸入され特集されていたのだ。子供心にかっこいい車だなと思い五十嵐平逹さんの自動車形態ノート(この記事もその後ずっと愛読していた)にも載っていたような2トーンに塗り分けたフラミニア(写真はフロリダか)を将来買いたいなと思った。
話がすこしそれてしまったが,僕は浜先生を通して,古い車に対する興味を持った事は間違いない。そんな意味では偶然に息子さんの浜さんのお話が聞けた事はとても嬉しかった。それが出来たのもOさん宅へ行く事になったからでOさんに重ねて感謝。
2008年08月25日
クオードの運び屋
先週の土、日はクオードESL仲間の運び屋として久しぶりに充実した(2日間の外泊と多少飲み過ぎがありましたが)2日間でした。
先ず金曜日にノイズの出ている自分のESLを車に積んで会社に行き、その夜は仕事の後新浦安のW氏宅へ。そこで彼自慢の装置で
ブライアン・ウイルソンのトリビュートを大画面と良い音で見聞きする。おいしいビールとつまみ,それからおいしいワイン。
すっかりいい気持ちになって氏が原稿を書いているのに寝てしまう。
翌日は修理の終わったもう1台のESLを積んで朝の8時半に一路玉川学園へ出発。すいてる東関東から首都高速そして東名に乗り、緑で降りてN氏宅へ。世界広しと言えどESLのサラウンドはここだけだろうと言う装置を聞く。このESLがまたすごく良い音。JBLなんかの固めの音はもう良いやとクオードのゆるい音に親しんでいる僕もこれがクオード?と言った感じの音に圧倒された。かといってJBLなんかの辛い音ではなく(昔はマランツにJBLといったアメリカの装置でレコードを聴いていたので、別にJBLが嫌いな訳でなく、年相応の音楽の聞き方がしたくなってそれがクオードだったと言う事です。誤解しないでください)僕の許容範囲の音でした。それにしても電源コードで音が変わる事まで体験して自分のオーディオへの努力の足りなさを感じました。ただ今はゆるいクオードで満足しています。
そこを出て今度は一路横須賀へ。246から16号へ出て横横を終点まで。M氏宅はすぐ分って修理なったESLを降ろす。そこで再びESLを聞く。こちらは純粋のESLの音。やはり落ち着くな。
M氏に僕の405のDC漏れをチェックしてもらうと片方だけ異常に漏れが多い。原因が分かるまでしばらく使わない様にしよう。
さてM氏宅を後に今度はいざ鎌倉へ。と言うのはO氏と言う狭山の友人の稲村ケ崎の別荘が完成したのでその日はそこに泊めていただく事にしていたので鎌倉で時間つぶし。久しぶりの鎌倉の人の多さに驚く。僕らがよく遊んでいた高校、大学の時代はこんなに人はいなかった。それにあらゆるお店があって正に観光地。友人のやっているカフェへ行きコーヒーを。ほんとはそこから浜徳太郎先生(車がお好きな方だが大学の先生だから皆そう呼んでいるのでしょう)の浜徳太郎と彼をめぐる自動車写真展と言うのをやっているお店に行きたかったのだが電話が通じず明日直接いく事にした。O氏と奥さんがこられるのが遅い時間だというのでそれまでの時間つぶしに友人が随分前にオープンしたBankと言うバーへ。車は駐車場に入れて稲村までは歩きかタクシーで行けば良いやとビールを飲み始めたら,なんとそこへマーチンギターを扱っている会社のF氏が入って来てなんでと言う事で盛り上がってしまった。普段は東京で仕事で会うくらいで(5,6年前は共通の友人Y氏と毎日の様に朝まで飲んだのに)このところご無沙汰していたから一気に盛り上がってしまい,彼の会社の鎌倉在住の方も見えて皆で食事に10分くらい歩いた所のお店へ。そこで有機野菜の天ぷらとかアジアン風のおいしい料理を食べて今度また何かやりたい根と話は多いに盛り上がったのですが(酔っぱらってもいました),O氏が鎌倉に到着して僕を迎えに来てくれましたのでO氏宅へ。おまけに停めておけばいいやと思った僕の車まで彼が運転してくれて別荘へ。そこで窓から海が見えるお風呂に入らせていただいて夢のような気分の内、僕は轟沈。(Oさん済みませんでした)。長い一日でした。
先ず金曜日にノイズの出ている自分のESLを車に積んで会社に行き、その夜は仕事の後新浦安のW氏宅へ。そこで彼自慢の装置で
ブライアン・ウイルソンのトリビュートを大画面と良い音で見聞きする。おいしいビールとつまみ,それからおいしいワイン。
すっかりいい気持ちになって氏が原稿を書いているのに寝てしまう。
翌日は修理の終わったもう1台のESLを積んで朝の8時半に一路玉川学園へ出発。すいてる東関東から首都高速そして東名に乗り、緑で降りてN氏宅へ。世界広しと言えどESLのサラウンドはここだけだろうと言う装置を聞く。このESLがまたすごく良い音。JBLなんかの固めの音はもう良いやとクオードのゆるい音に親しんでいる僕もこれがクオード?と言った感じの音に圧倒された。かといってJBLなんかの辛い音ではなく(昔はマランツにJBLといったアメリカの装置でレコードを聴いていたので、別にJBLが嫌いな訳でなく、年相応の音楽の聞き方がしたくなってそれがクオードだったと言う事です。誤解しないでください)僕の許容範囲の音でした。それにしても電源コードで音が変わる事まで体験して自分のオーディオへの努力の足りなさを感じました。ただ今はゆるいクオードで満足しています。
そこを出て今度は一路横須賀へ。246から16号へ出て横横を終点まで。M氏宅はすぐ分って修理なったESLを降ろす。そこで再びESLを聞く。こちらは純粋のESLの音。やはり落ち着くな。
M氏に僕の405のDC漏れをチェックしてもらうと片方だけ異常に漏れが多い。原因が分かるまでしばらく使わない様にしよう。
さてM氏宅を後に今度はいざ鎌倉へ。と言うのはO氏と言う狭山の友人の稲村ケ崎の別荘が完成したのでその日はそこに泊めていただく事にしていたので鎌倉で時間つぶし。久しぶりの鎌倉の人の多さに驚く。僕らがよく遊んでいた高校、大学の時代はこんなに人はいなかった。それにあらゆるお店があって正に観光地。友人のやっているカフェへ行きコーヒーを。ほんとはそこから浜徳太郎先生(車がお好きな方だが大学の先生だから皆そう呼んでいるのでしょう)の浜徳太郎と彼をめぐる自動車写真展と言うのをやっているお店に行きたかったのだが電話が通じず明日直接いく事にした。O氏と奥さんがこられるのが遅い時間だというのでそれまでの時間つぶしに友人が随分前にオープンしたBankと言うバーへ。車は駐車場に入れて稲村までは歩きかタクシーで行けば良いやとビールを飲み始めたら,なんとそこへマーチンギターを扱っている会社のF氏が入って来てなんでと言う事で盛り上がってしまった。普段は東京で仕事で会うくらいで(5,6年前は共通の友人Y氏と毎日の様に朝まで飲んだのに)このところご無沙汰していたから一気に盛り上がってしまい,彼の会社の鎌倉在住の方も見えて皆で食事に10分くらい歩いた所のお店へ。そこで有機野菜の天ぷらとかアジアン風のおいしい料理を食べて今度また何かやりたい根と話は多いに盛り上がったのですが(酔っぱらってもいました),O氏が鎌倉に到着して僕を迎えに来てくれましたのでO氏宅へ。おまけに停めておけばいいやと思った僕の車まで彼が運転してくれて別荘へ。そこで窓から海が見えるお風呂に入らせていただいて夢のような気分の内、僕は轟沈。(Oさん済みませんでした)。長い一日でした。
2008年08月19日
もっとベースを/ジェリー・ウエクスラー
ジェリー・ウエクスラーが亡くなった。91歳だから大往生でしょう。最近はフロリダで悠々自適の生活をしていたらしい。彼はサイアーレコードのセイモー・ステイン並んで、僕が最も尊敬するプロデューサーだった。ビルボードの調査員やライター(多分売り上げなどをチェックしたり記事を書いたりする仕事)だった頃レイス・レコード(人種レコード)レイス・チャ−トと言う言葉に変えてリズム&ブルースと言う言葉を作り出したのが彼だ。
確か98年だったと思うがトムス・キャビンのコンサート再開する当たってマッスル・シヨールズのオールスターズをやりたくてダニー・フリッツをアラバマへ訪ねた。彼に3614 Jacson highwayにあったオリジナルのマッスル・シヨールズ・スタジオや確か水道局の施設だったと言う新しい方のスタジオに連れて行ってもらった。その頃はマラコがスタジオを買い取っていたのだが名前はまだマッスルシュオールズスタジオだった。
そこでデイヴィッド・フッドやロジャー.ホーキンズを紹介してもらった。スタジオにはパーシー・スレッジやストーンを始めとするジェリー・ウエクスラーがプロデュースしたR&Bのレコーが壁にかけてあった。ダニーに僕が一番尊敬するプロヂューサーだよと言うと、そうかじゃあ後で電話して見ようと言った。ダニーのうちへ帰って(その日は彼のうちに泊めてもらったのです)夕食の後ダニーが電話してくれて,遠い日本から君を尊敬すると言う人が来てるよと言って電話を渡された。とっさの事で何を話したかは良く覚えていないのだが『あなたがやって来た仕事は最高です』みたいな事を言った。
NY生まれでユダヤ人の血を引く彼が同じくヨーロッパ人のアーテガン兄弟と作ったアトランティックレコードがアメリカを代表するR&Bのレーベルを作リ、素晴らしいレコードを生み出し、ストーンズまで所属したいと思わせる大きなレーベルになった事は、僕ら音楽に携わるものとして大きな励みになったものです。そう思っているのは僕だけかもしれないけど。彼をを追悼したNYタイムスにの記事に、墓石に何か書くとしたらなんて書きますかと言う問いに『More Bass』(ベースをもっと)と言うのが彼らしくていい。最後にこれは訳されていると良いのだけどジェリーウエクスラーの伝記本があります。タイトルが Rhythm and the Blues.
確か98年だったと思うがトムス・キャビンのコンサート再開する当たってマッスル・シヨールズのオールスターズをやりたくてダニー・フリッツをアラバマへ訪ねた。彼に3614 Jacson highwayにあったオリジナルのマッスル・シヨールズ・スタジオや確か水道局の施設だったと言う新しい方のスタジオに連れて行ってもらった。その頃はマラコがスタジオを買い取っていたのだが名前はまだマッスルシュオールズスタジオだった。
そこでデイヴィッド・フッドやロジャー.ホーキンズを紹介してもらった。スタジオにはパーシー・スレッジやストーンを始めとするジェリー・ウエクスラーがプロデュースしたR&Bのレコーが壁にかけてあった。ダニーに僕が一番尊敬するプロヂューサーだよと言うと、そうかじゃあ後で電話して見ようと言った。ダニーのうちへ帰って(その日は彼のうちに泊めてもらったのです)夕食の後ダニーが電話してくれて,遠い日本から君を尊敬すると言う人が来てるよと言って電話を渡された。とっさの事で何を話したかは良く覚えていないのだが『あなたがやって来た仕事は最高です』みたいな事を言った。
NY生まれでユダヤ人の血を引く彼が同じくヨーロッパ人のアーテガン兄弟と作ったアトランティックレコードがアメリカを代表するR&Bのレーベルを作リ、素晴らしいレコードを生み出し、ストーンズまで所属したいと思わせる大きなレーベルになった事は、僕ら音楽に携わるものとして大きな励みになったものです。そう思っているのは僕だけかもしれないけど。彼をを追悼したNYタイムスにの記事に、墓石に何か書くとしたらなんて書きますかと言う問いに『More Bass』(ベースをもっと)と言うのが彼らしくていい。最後にこれは訳されていると良いのだけどジェリーウエクスラーの伝記本があります。タイトルが Rhythm and the Blues.
2008年08月04日
矢野顕子とマーク・リボ
マーク・リボが来日して電話をくれた.飯でもと言うので恵比寿ですしを食べた。ダイエットしなきゃと言いながらかなり食べてた.NYの音楽事情をいろいろと教えてくれた。今回は矢野顕子とのコラボだそうだ.明日くるよねと初日のライブに誘ってくれたので金曜日に見に行った。
矢野顕子とマーク・リボ。一見合いそうにない組み合わせだが多分面白いと思った僕の予感は的中してかなり面白かった。矢野顕子もジャズ出だし、マークは何でもありでアルバート・アイラー好きだ。矢野顕子の超テクノピアノにマークの変態ギターが絡む,何とも言えないバランスで演奏される曲はこれまた変化にとんでいて面白い.僕は矢野顕子のソロは武道館で見た何曲かだけだったのだが,彼女の選曲と人を引きつけるヴォーカルにすっかり陶酔してしまった。でも何が驚いたって,彼女が大好きなjimmy Dale Guilmoreの曲と言ってSaginaw Michigan(60年代のレフティ・フリゼルのヒット曲、彼女もカントリーが好きなんだって)をやったのには驚いた,それと矢野顕子がギルモアのファンとは驚いた。ただ彼女はこの曲は1930年代の曲と言っていたが確かビル・アンダーソンと誰かが書いた曲だから60年代の曲だと思う.この曲はノベルティだがこの曲で見事カンバックしたレフティにとっては記念の曲だ。マークはここでバンジョーを弾いてカントリー色を出していた。途中マークのギターソロをはさんでのショーは久しぶりに見たプロの仕事(だけど退屈ではなかった)。まさに僕にとって聞かずに死ねるかだった。今日もやってるようだけどもう遅いよね。
矢野顕子とマーク・リボ。一見合いそうにない組み合わせだが多分面白いと思った僕の予感は的中してかなり面白かった。矢野顕子もジャズ出だし、マークは何でもありでアルバート・アイラー好きだ。矢野顕子の超テクノピアノにマークの変態ギターが絡む,何とも言えないバランスで演奏される曲はこれまた変化にとんでいて面白い.僕は矢野顕子のソロは武道館で見た何曲かだけだったのだが,彼女の選曲と人を引きつけるヴォーカルにすっかり陶酔してしまった。でも何が驚いたって,彼女が大好きなjimmy Dale Guilmoreの曲と言ってSaginaw Michigan(60年代のレフティ・フリゼルのヒット曲、彼女もカントリーが好きなんだって)をやったのには驚いた,それと矢野顕子がギルモアのファンとは驚いた。ただ彼女はこの曲は1930年代の曲と言っていたが確かビル・アンダーソンと誰かが書いた曲だから60年代の曲だと思う.この曲はノベルティだがこの曲で見事カンバックしたレフティにとっては記念の曲だ。マークはここでバンジョーを弾いてカントリー色を出していた。途中マークのギターソロをはさんでのショーは久しぶりに見たプロの仕事(だけど退屈ではなかった)。まさに僕にとって聞かずに死ねるかだった。今日もやってるようだけどもう遅いよね。
2008年07月29日
ライ・クーダーとカントリー
ミュージックマガジンの8月号にライクーダーのインタビューが乗っていた。五十嵐正君がインタビュアーなので的を得た質問で面白かった。
中でもライが今回のCDのインスピレーションはホンキートンクだと断言しているのを読んで嬉しくなった。
細野君といいライといい皆カントリーが好きなんですよ.皆さんもっとカントリーを聞きましょう.特に5、60年代のカントリーを。
さてライのインタビューだがかなり専門的なので少々解説を。
まず日本のほとんどの人がホンキートンクと言う言葉の意味を知らないと思うのでカントリーミュージック・ファンが増える事を願ってそこら辺をもう少し
解説したいと思う。
ホンキートンクとはいくつかの意味があるのだがライが言っている意味のホンキートンクはカントリーミュージック,カントリーソングの事だ。ただこれは昔風の言い方で今はあまり使わなくてカントリーソングなどと言う。もう一つの意味のホンキートンクとは労働者が集まる場末のバーや安レストランの事で良くそういう所でそこでカントリーのバンドが演奏していた、いわゆるブルースで言う所のジュークジョイントと同じで、主に南部や南西部の人達がそういう場所をホンキートンクと呼んでいた。そしてもうひとつの意味はカントリースタイルのピアノの演奏スタイルの事でホンキートンクピアノと呼んでいる,これはトンクと言うピアノメーカーから来ていると言う説もあるが先に書いたバーや安酒場で演奏するラフな演奏と言う意味もある。ただ最近は安いアップライトピアノの事をそう呼ぶ人も居る。
さて今回のライのインタビューだが僕個人としては3つの点に興味を引かれた.先ず彼が聞いていたカントリー・ミュージックについて.二つ目がステイール・ギターについて.そして最後の一つがカントリーのソングライター達についてだ。
先ず最初のカントリーソングだが、彼は1947年生まれだから彼がカントリーを良く聞いていたという6才から10才の頃は1953-1960年頃になるのだが,ハンク・ウイリアムスが亡くなったのが1953年だ。その頃彼が良く聞いていたと思えるホンキートンクは多分ハンク・ウイリアムス,ハンク・スノー、レフティ・フリゼル、ウエップ・ピアーズ、レイ・プライス、ジョニー・ホートン、ジム・リーブス、ファロン・ヤング、ジョニー・キャシュと言った人達だろう。まあ当然その時代より前の人達も聞いていたと思える。また彼が育ったウエストコーストのカントリーのハンク・トンプソン、ファーリン・ファスキー,マール・トラヴィズそして60年代のバック・オーエンズ、なども当然聞いていただろう。ライの事だからこういったビッグネーム以外にもかなり渋い所を聞いていた可能性はあるし,彼が好きだと言っているインストルメンタルもジミー・ブライアントとスピーディ・ウエストを始めとしてマール・トラヴィスなどは当然聞いていたと思う。ライは以前に何曲かカントリーソングをレコーディングしているがジョニー・キャッシュのHey porter,とGet Rhythm,ハンク・スノーのYellow Roses,ジム・リーブスのHe'll have to go.彼がレコーディングした多くのブルースに比べて遥かに少ない。60年代までは完全なカントリーや白人系のルーツ・ミュージック少年(青年)だったのにどうしてだろう?いつかライに聞いてみたいテーマだ。
さて次のスティ−ル・ギターについて,メル友の紅豹さんからライがステール・ギター好きでそれもビグスビーを使っている人が好きと聞いていたが、僕の以前の日記にヤスさんが書いてくれた様にビグスビーを使っているプレーヤーのはかなり限られる。ビグスビーは確かそんなにたくさんのステ−ルギターは作ってないと思うのだが(そうですよね紅豹さん)そうなるとかなりプレーヤーも限定される,だからライが名前を挙げているジョニー・ヒューイ(Jhon Huey),ジミー・デイ(Jimmy Day)ホアキン・マーフィー(Joaquin Murphy)と言った人達は数少ないビグスビー・プレーヤーだと思う.スティール・ギターに関してはあまり詳しくないので間違っていたらヤスさん、 cnioさん紅豹さん訂正してください。先ずジョニー・ヒューイだが僕はあまりこの人の事は知らない.ハンク・トンプソンのバンドにいた事くらいしか知らない.彼のバンドだから当然ウエスタンスイングを演奏していたのだろう。ジミー・デイはレイ・プライスのチェロキー・カウボーイズで活躍した後ウイリーネルソンのバックもやっていた人でCrazy armsやheartaches by the number 他の一連のヒットで一躍人気ものになったレイプライスを陰で支えた人だ。チェロキーカウボーズにはCrazy Arms を書いたラルフ・ムーニーやドン・ヘルムスと言った素晴らしいースティールギター奏者がいたがたぶんライが聞いていた頃はジミー・デイだったのだろう。そして最後がホアキン・マーフィー(ライはこの人の名前をもじって息子につけたのでは)この人の事もあまり知らないが多分この人が最初にビグスビーにステールをオーダーしたとどこかに書いてあった.その後バド・アイザックとかいろんな人が注文をする様になったと言う事だ.Spade Cooley のバンドで演奏していたと言うからこの人もウエスタン・スイング系なのだろう確かスペードクーリーのオクラホマ・ストンプは彼だったと思う。この人はずっとカリフォルニアにいたと言うからライは生で彼を聴いたことがあるのかもしれない。
さて最後のテーマだが僕にとってはこれが一番興味があった。マール・トラヴィス、ハーレン・・ハワード、ウイリーネルソン、ジョニー・キャッシュと言った名前だ。全てカントリー界のシンガーソングライターだ。(ハーレンはワードも何枚かアルバムを出している)マール・トラヴィスはドック・ワトソンが息子にマールと名前を付けた事でも分る様にミュージシャンに彼のファンが多い。dark as the dungeon ,16-tons と言った一連の炭坑の唄で有名だがテックス・ウイリアムスと書いたSmoke Smoke Smoke that cigarets ,No Vacancyと言ったノベルティーぽいもの曲ある.彼も確かロスに住んでいたのでライは生演奏を見たことがあるのかもしれない。ハーレン・ハワードは僕の大好きなソングライターだ.前の日記のも書いたが彼は数多くのヒットソングを書いてるが僕の個人的な意見としては物語を作るのがうまい.いわゆるヒットソングだから3分間で完結しなければ行けない訳だがその話の持って行き方が凄くうまい。そしてウイリー・ネルソンだがもう今や大スターの彼がソングライターとして食うや食わずの生活をしていたなんて今の人は知らないだろうな。レイ・プライスのナイト・ライフが最初のビッグヒット.それが縁でレイのバンド、チェロキー・カウボーイズにベース・プレーヤーとして入りその後も曲を書き続けビリー・ウオーカーの"Funny How Time Slips Away" ,ファロン・ヤングの "Hello Walls" ロイ・オービソンの"Pretty Paper" パッツイ・クラインの"Crazy" とヒット曲を書き、最終的にソロ歌手としてデビューするのだが、この人の曲も発想が面白い。ジョニー・キャッシュは映画にもなっていて、もう説明のないほど有名だがライは彼の曲を2曲もレコーディングしているのでそうとう好きなのだろう。こうして見てみるとライ・クーダーの好みのソングライターは先ず詩の発想が面白くて曲がシンプルで優れたメロディーメーカーである事の様に思える。
と言う事でライも細野君も好きなカントリーミュージック.皆さ−ん.もっとカントリーを聞きましょ
中でもライが今回のCDのインスピレーションはホンキートンクだと断言しているのを読んで嬉しくなった。
細野君といいライといい皆カントリーが好きなんですよ.皆さんもっとカントリーを聞きましょう.特に5、60年代のカントリーを。
さてライのインタビューだがかなり専門的なので少々解説を。
まず日本のほとんどの人がホンキートンクと言う言葉の意味を知らないと思うのでカントリーミュージック・ファンが増える事を願ってそこら辺をもう少し
解説したいと思う。
ホンキートンクとはいくつかの意味があるのだがライが言っている意味のホンキートンクはカントリーミュージック,カントリーソングの事だ。ただこれは昔風の言い方で今はあまり使わなくてカントリーソングなどと言う。もう一つの意味のホンキートンクとは労働者が集まる場末のバーや安レストランの事で良くそういう所でそこでカントリーのバンドが演奏していた、いわゆるブルースで言う所のジュークジョイントと同じで、主に南部や南西部の人達がそういう場所をホンキートンクと呼んでいた。そしてもうひとつの意味はカントリースタイルのピアノの演奏スタイルの事でホンキートンクピアノと呼んでいる,これはトンクと言うピアノメーカーから来ていると言う説もあるが先に書いたバーや安酒場で演奏するラフな演奏と言う意味もある。ただ最近は安いアップライトピアノの事をそう呼ぶ人も居る。
さて今回のライのインタビューだが僕個人としては3つの点に興味を引かれた.先ず彼が聞いていたカントリー・ミュージックについて.二つ目がステイール・ギターについて.そして最後の一つがカントリーのソングライター達についてだ。
先ず最初のカントリーソングだが、彼は1947年生まれだから彼がカントリーを良く聞いていたという6才から10才の頃は1953-1960年頃になるのだが,ハンク・ウイリアムスが亡くなったのが1953年だ。その頃彼が良く聞いていたと思えるホンキートンクは多分ハンク・ウイリアムス,ハンク・スノー、レフティ・フリゼル、ウエップ・ピアーズ、レイ・プライス、ジョニー・ホートン、ジム・リーブス、ファロン・ヤング、ジョニー・キャシュと言った人達だろう。まあ当然その時代より前の人達も聞いていたと思える。また彼が育ったウエストコーストのカントリーのハンク・トンプソン、ファーリン・ファスキー,マール・トラヴィズそして60年代のバック・オーエンズ、なども当然聞いていただろう。ライの事だからこういったビッグネーム以外にもかなり渋い所を聞いていた可能性はあるし,彼が好きだと言っているインストルメンタルもジミー・ブライアントとスピーディ・ウエストを始めとしてマール・トラヴィスなどは当然聞いていたと思う。ライは以前に何曲かカントリーソングをレコーディングしているがジョニー・キャッシュのHey porter,とGet Rhythm,ハンク・スノーのYellow Roses,ジム・リーブスのHe'll have to go.彼がレコーディングした多くのブルースに比べて遥かに少ない。60年代までは完全なカントリーや白人系のルーツ・ミュージック少年(青年)だったのにどうしてだろう?いつかライに聞いてみたいテーマだ。
さて次のスティ−ル・ギターについて,メル友の紅豹さんからライがステール・ギター好きでそれもビグスビーを使っている人が好きと聞いていたが、僕の以前の日記にヤスさんが書いてくれた様にビグスビーを使っているプレーヤーのはかなり限られる。ビグスビーは確かそんなにたくさんのステ−ルギターは作ってないと思うのだが(そうですよね紅豹さん)そうなるとかなりプレーヤーも限定される,だからライが名前を挙げているジョニー・ヒューイ(Jhon Huey),ジミー・デイ(Jimmy Day)ホアキン・マーフィー(Joaquin Murphy)と言った人達は数少ないビグスビー・プレーヤーだと思う.スティール・ギターに関してはあまり詳しくないので間違っていたらヤスさん、 cnioさん紅豹さん訂正してください。先ずジョニー・ヒューイだが僕はあまりこの人の事は知らない.ハンク・トンプソンのバンドにいた事くらいしか知らない.彼のバンドだから当然ウエスタンスイングを演奏していたのだろう。ジミー・デイはレイ・プライスのチェロキー・カウボーイズで活躍した後ウイリーネルソンのバックもやっていた人でCrazy armsやheartaches by the number 他の一連のヒットで一躍人気ものになったレイプライスを陰で支えた人だ。チェロキーカウボーズにはCrazy Arms を書いたラルフ・ムーニーやドン・ヘルムスと言った素晴らしいースティールギター奏者がいたがたぶんライが聞いていた頃はジミー・デイだったのだろう。そして最後がホアキン・マーフィー(ライはこの人の名前をもじって息子につけたのでは)この人の事もあまり知らないが多分この人が最初にビグスビーにステールをオーダーしたとどこかに書いてあった.その後バド・アイザックとかいろんな人が注文をする様になったと言う事だ.Spade Cooley のバンドで演奏していたと言うからこの人もウエスタン・スイング系なのだろう確かスペードクーリーのオクラホマ・ストンプは彼だったと思う。この人はずっとカリフォルニアにいたと言うからライは生で彼を聴いたことがあるのかもしれない。
さて最後のテーマだが僕にとってはこれが一番興味があった。マール・トラヴィス、ハーレン・・ハワード、ウイリーネルソン、ジョニー・キャッシュと言った名前だ。全てカントリー界のシンガーソングライターだ。(ハーレンはワードも何枚かアルバムを出している)マール・トラヴィスはドック・ワトソンが息子にマールと名前を付けた事でも分る様にミュージシャンに彼のファンが多い。dark as the dungeon ,16-tons と言った一連の炭坑の唄で有名だがテックス・ウイリアムスと書いたSmoke Smoke Smoke that cigarets ,No Vacancyと言ったノベルティーぽいもの曲ある.彼も確かロスに住んでいたのでライは生演奏を見たことがあるのかもしれない。ハーレン・ハワードは僕の大好きなソングライターだ.前の日記のも書いたが彼は数多くのヒットソングを書いてるが僕の個人的な意見としては物語を作るのがうまい.いわゆるヒットソングだから3分間で完結しなければ行けない訳だがその話の持って行き方が凄くうまい。そしてウイリー・ネルソンだがもう今や大スターの彼がソングライターとして食うや食わずの生活をしていたなんて今の人は知らないだろうな。レイ・プライスのナイト・ライフが最初のビッグヒット.それが縁でレイのバンド、チェロキー・カウボーイズにベース・プレーヤーとして入りその後も曲を書き続けビリー・ウオーカーの"Funny How Time Slips Away" ,ファロン・ヤングの "Hello Walls" ロイ・オービソンの"Pretty Paper" パッツイ・クラインの"Crazy" とヒット曲を書き、最終的にソロ歌手としてデビューするのだが、この人の曲も発想が面白い。ジョニー・キャッシュは映画にもなっていて、もう説明のないほど有名だがライは彼の曲を2曲もレコーディングしているのでそうとう好きなのだろう。こうして見てみるとライ・クーダーの好みのソングライターは先ず詩の発想が面白くて曲がシンプルで優れたメロディーメーカーである事の様に思える。
と言う事でライも細野君も好きなカントリーミュージック.皆さ−ん.もっとカントリーを聞きましょ
2008年07月24日
バック・オーエンス
クリス・ヒルマンとハーブ・ペダーソンのツアー以来バック・オーエンスの事が気になっていたところボックスセットが出ているのを知って買った。
ボックスセットと言うのは値段的には高いのだが中にブックレットが入っていて今まで知らなかった事がたくさん書いてあるのでついつい買ってしまう。
今回もあたらしい発見がいくつかあった。
多分僕がバック・オーエンスを最初に聞いたのはFENでかかったunder your spell againが最初だったと思う.多分1959年か60年、彼の最初のビッグヒットだ。
ナシュビルでなくウエストコーストはロスアンジェルスの北、ベーカースフィールドから出て来たカントリー・シンガーと言う事で雑誌などでも取り上げられて、かなり注目を浴びていたのがバック・オーエンスだった。その後その流れはマール・ハガードそしてドワイト・ヨーカムへと続いて行く。
ベーカーズフィールドがあるSan Juaquin Valleyは大恐慌の時代に多くの仕事を求めた人達が(ほとんどはお百姓だったが)オクラホマ、テキサス、アーカンソーと言った州から移って来た場所で、彼らの楽しみのひとつがカントリーミュージックだった。そういう事でバック・オーエンス以前にもベーカーズ・フィールドにはウイン・スティアート、トミー・コリンズ(ハンサムで当時日本でもかなり人気があった。確かかまやつさんもトミーの漬け物娘もしくはピックル娘?を歌っていたと思う)と言ったカントリー・シンガーがいたがベーカーズフィールド・サウンドと言う確固たるものを確立したのはバック・オーエンスだ。
その頃、僕の音楽的興味はカントリーやブルーグラスからフォークへ代わっていたので、カントリーはFENでしか聞かなくなっていた時期だったが
そのunder your spell againの後,ビートルスも取り上げたAct NatulallyそしてLoves gonna live hereを聞いた時は、それまでのカントリーにはなかったかっこ良さみたいなものと驚きをを感じた。多分それはナッシュビル製のカントリーにない乾いた都会的な歯切れの良い音だと思ったのだろう。
なぜかは分らないが僕が当時好きだったカントリー・シンガー達はワンダ・ジャクソン、ファーリン・ハスキー、トミー・コリンズといったウエストコーストの人が多かった.彼らは皆キャピタルレコードの専属だった。キャピタル・レコードは初のウエストコーストのレーベルとして40年代にソングライターのジョニー・マーサー等によって設立されたレーベルだ。50年代からマーケット的に大きくなったカントリー畑にも進出して来た.
ただ他のほとんどのレーベルがナッシュビルでレコード製作したのにキャピトルのカントリーレコードははケン・ネルソンと言うプロデューサーのもと
ロス・アンジェルスで作られた。ケン・ネルソンは先にあげた人の他にハンク・トンプソンやたぶんマール・トラヴィスなどのプロデュースもしている。
例のハリウッドにあるトウモロコシみたいな形をしたキャピタル・タワービルの中にある(確かではないが多分)スタジオでレコーディングされたのだと思う。
ケン・ネルソンはトミー・コリンズのバックでエレキを弾いていたバック・オーエンスを気に入り数々のレコーディングセッションに彼を使った。
当時ナシュビルと違ってロス周辺でカントリーを演奏できるプロのミュージシャンは少なかったらしく(ジミー・ブライアントとスピーディ・ウエスト.マール・トラヴィス等は別だが多分スタイルが確立されていて使いにくかったのだと思う)、歌手ファーリン・ハスキーなんかもレコーディングでリードギターを弾いていたと言う。ケン・ネルソンはバック・オーエンスに単なるバック・ミュージシャン以上の才能を感じて彼をキャピタルレコードでカントリー・シンガーとしてデビューさせる.それがunder your spell againとなったのだ。
それ以後バック・オーエンスは立て続けにヒットを出し60年代をを代表するカントリーシンガーとなった。最初は彼自身がリードを弾いていたようだが若いドン・リッチがバンドに加入しエレキとフィドルそれにトレードマークのハイパートハーモニーをする様になり,ベイカーズ・サウンドを確立し、カーネギーホールでも演奏するくらい名実共にカントリー界のビッグスターとなった。僕自身は70年代半ばにバックの日本ツアーで司会兼ロードマネージャーとしてツアーに参加した。確かその時はもうドン・リッチは亡くなっていて女性のフィドラーがついて来た,多分彼女はバックの2番目の奥さんになった人だと思う。made in Japan と言うヒット曲の後だったと思うが若干ラスベガス風のショーにちょっとがっかりした事を覚えている。
もう一つこのボックスセットでよく分かったのが、僕が好きなソングライターのハーレン・ハワード(Harlan Howard)との事だ。
実はハーレン・ハワードの事を最初に知ったのもバック・オーエンスのアルバムBuck Owens sings Harlan Hawardだった。ハワードの最初のヒット曲はチャーリー・ウオーカーのPick Me Up on Your Way Down。その後はレイ・プライスのHeartaches By The Number、パツイ・クラインのI Fall to Pieces,ボビー・ベアーのStreets of Baltimoreと数えきれない。数年前に亡くなったハーレン・ハワードはナッシュビルを代表するソングライターだったが、50年代は誰も彼の書く曲に興味を示してくれずソングライターとして身を立てようとロスアンジェルに向かった.カントリーソングのライターならナッシュビルだと思うのだが当時ナシュビル周辺には産業がなく食べて行く為にはロスの方が仕事があると思いロスに移住したらしい。そしてそこでバックと知り合い一緒に曲を書く様になった。ただ二人の共作でのヒットは以外と少ない。
チャーリー・ウオーカーやレイ・プライスのヒットでハーレンは念願かなってナシュビルに移って行くのだが,彼がソングライターとして売れる前、彼の曲をバックの出版社で買い取ったりと経済的にも援助をしていたようだ。
このボックスセットは1964年までのものなので多分もう一枚というかもう1ボックスセットが発売されると思うがやはり買ってしまいそうだな。
これを書いてる時にミュージックマガジンにライ・クーダーの記事が載っていると言うので読んだが,彼も僕と同じような少年時代を送っていたようなので(作家ハーレン・ハワードやウイリー・ネルソンにも触れているしホンキー・トンクについても書いている)次はそれについて書こう。
ボックスセットと言うのは値段的には高いのだが中にブックレットが入っていて今まで知らなかった事がたくさん書いてあるのでついつい買ってしまう。
今回もあたらしい発見がいくつかあった。
多分僕がバック・オーエンスを最初に聞いたのはFENでかかったunder your spell againが最初だったと思う.多分1959年か60年、彼の最初のビッグヒットだ。
ナシュビルでなくウエストコーストはロスアンジェルスの北、ベーカースフィールドから出て来たカントリー・シンガーと言う事で雑誌などでも取り上げられて、かなり注目を浴びていたのがバック・オーエンスだった。その後その流れはマール・ハガードそしてドワイト・ヨーカムへと続いて行く。
ベーカーズフィールドがあるSan Juaquin Valleyは大恐慌の時代に多くの仕事を求めた人達が(ほとんどはお百姓だったが)オクラホマ、テキサス、アーカンソーと言った州から移って来た場所で、彼らの楽しみのひとつがカントリーミュージックだった。そういう事でバック・オーエンス以前にもベーカーズ・フィールドにはウイン・スティアート、トミー・コリンズ(ハンサムで当時日本でもかなり人気があった。確かかまやつさんもトミーの漬け物娘もしくはピックル娘?を歌っていたと思う)と言ったカントリー・シンガーがいたがベーカーズフィールド・サウンドと言う確固たるものを確立したのはバック・オーエンスだ。
その頃、僕の音楽的興味はカントリーやブルーグラスからフォークへ代わっていたので、カントリーはFENでしか聞かなくなっていた時期だったが
そのunder your spell againの後,ビートルスも取り上げたAct NatulallyそしてLoves gonna live hereを聞いた時は、それまでのカントリーにはなかったかっこ良さみたいなものと驚きをを感じた。多分それはナッシュビル製のカントリーにない乾いた都会的な歯切れの良い音だと思ったのだろう。
なぜかは分らないが僕が当時好きだったカントリー・シンガー達はワンダ・ジャクソン、ファーリン・ハスキー、トミー・コリンズといったウエストコーストの人が多かった.彼らは皆キャピタルレコードの専属だった。キャピタル・レコードは初のウエストコーストのレーベルとして40年代にソングライターのジョニー・マーサー等によって設立されたレーベルだ。50年代からマーケット的に大きくなったカントリー畑にも進出して来た.
ただ他のほとんどのレーベルがナッシュビルでレコード製作したのにキャピトルのカントリーレコードははケン・ネルソンと言うプロデューサーのもと
ロス・アンジェルスで作られた。ケン・ネルソンは先にあげた人の他にハンク・トンプソンやたぶんマール・トラヴィスなどのプロデュースもしている。
例のハリウッドにあるトウモロコシみたいな形をしたキャピタル・タワービルの中にある(確かではないが多分)スタジオでレコーディングされたのだと思う。
ケン・ネルソンはトミー・コリンズのバックでエレキを弾いていたバック・オーエンスを気に入り数々のレコーディングセッションに彼を使った。
当時ナシュビルと違ってロス周辺でカントリーを演奏できるプロのミュージシャンは少なかったらしく(ジミー・ブライアントとスピーディ・ウエスト.マール・トラヴィス等は別だが多分スタイルが確立されていて使いにくかったのだと思う)、歌手ファーリン・ハスキーなんかもレコーディングでリードギターを弾いていたと言う。ケン・ネルソンはバック・オーエンスに単なるバック・ミュージシャン以上の才能を感じて彼をキャピタルレコードでカントリー・シンガーとしてデビューさせる.それがunder your spell againとなったのだ。
それ以後バック・オーエンスは立て続けにヒットを出し60年代をを代表するカントリーシンガーとなった。最初は彼自身がリードを弾いていたようだが若いドン・リッチがバンドに加入しエレキとフィドルそれにトレードマークのハイパートハーモニーをする様になり,ベイカーズ・サウンドを確立し、カーネギーホールでも演奏するくらい名実共にカントリー界のビッグスターとなった。僕自身は70年代半ばにバックの日本ツアーで司会兼ロードマネージャーとしてツアーに参加した。確かその時はもうドン・リッチは亡くなっていて女性のフィドラーがついて来た,多分彼女はバックの2番目の奥さんになった人だと思う。made in Japan と言うヒット曲の後だったと思うが若干ラスベガス風のショーにちょっとがっかりした事を覚えている。
もう一つこのボックスセットでよく分かったのが、僕が好きなソングライターのハーレン・ハワード(Harlan Howard)との事だ。
実はハーレン・ハワードの事を最初に知ったのもバック・オーエンスのアルバムBuck Owens sings Harlan Hawardだった。ハワードの最初のヒット曲はチャーリー・ウオーカーのPick Me Up on Your Way Down。その後はレイ・プライスのHeartaches By The Number、パツイ・クラインのI Fall to Pieces,ボビー・ベアーのStreets of Baltimoreと数えきれない。数年前に亡くなったハーレン・ハワードはナッシュビルを代表するソングライターだったが、50年代は誰も彼の書く曲に興味を示してくれずソングライターとして身を立てようとロスアンジェルに向かった.カントリーソングのライターならナッシュビルだと思うのだが当時ナシュビル周辺には産業がなく食べて行く為にはロスの方が仕事があると思いロスに移住したらしい。そしてそこでバックと知り合い一緒に曲を書く様になった。ただ二人の共作でのヒットは以外と少ない。
チャーリー・ウオーカーやレイ・プライスのヒットでハーレンは念願かなってナシュビルに移って行くのだが,彼がソングライターとして売れる前、彼の曲をバックの出版社で買い取ったりと経済的にも援助をしていたようだ。
このボックスセットは1964年までのものなので多分もう一枚というかもう1ボックスセットが発売されると思うがやはり買ってしまいそうだな。
これを書いてる時にミュージックマガジンにライ・クーダーの記事が載っていると言うので読んだが,彼も僕と同じような少年時代を送っていたようなので(作家ハーレン・ハワードやウイリー・ネルソンにも触れているしホンキー・トンクについても書いている)次はそれについて書こう。
2008年07月22日
アーティ・トラウム
アーティー・トラウムが亡くなった。僕が初めて彼とあったのは67年のNY、イージー・ヤングのフォークロー・センターだから随分と長く彼を知っていた事になる。当時エリック・カッズやマーク・シルバー達とやっていたThe Bearのライブも見たことがある。その当時からいつもニコニコしている印象があって,そういえば彼が怒ったとこを見た事がないなあと夕べ思った。マッドエイカーズ、ハッピー&アーティーで3回,そういえばリヴィングストン・テイラーと一緒に来た事もあった。いつも日本に来る事を楽しみにしていて来日前には,あのレストランはまだやっているかとか、こういうものは何処に売っているんだ?とか聞いてくる。この間のツアーの時も僕の友人とトラウム兄弟夫婦で中華を食べに言ってのだが翌日電話をかけて来て、昨日のレストランの名前と電話番号を知らせてくれもうすぐ日本に来る友人がいるから教えてやるんだと言っていた。そういった人に対する気配りを持っていた人だった。それにしても最後になってしまった2006年のツアーから1年半。去年ウッドストックであった時も元気だったのに。同じ世代の人が亡くなるって辛い。こういう事があるとやっぱり”聞かずに死ねるかシリーズ”は続けて行かなければといけないのかなと思ってしまう。ハッピーから彼の追悼の集まりが24日の2時からウッドストックで行なわれると言うメールが来た。急なのでその場に集まれない方も多いと思うが,出来ればその時間にアーティーの事を思って欲しいと書いてあった。日本では25日の早朝
だから、24日の夜に彼のCDを聞きながら飲もうと思う。
だから、24日の夜に彼のCDを聞きながら飲もうと思う。
2008年06月27日
ジェフのツアー終了
ジェフのツアーが終わった.二人だけのツアー、正直言って疲れた.終わった翌日久しぶりに一日何もしないで会社を休んだ。
いろんな話が聞けたし,毎日の様にうどんを食べたし、懐かしい人にも会えた。
山口でずっと会いたいと思っていた福屋さんに会えた。福家さんは1980年にやったあの幻の一回目のトニー・ジョー・ホワイトツアーを
福山でやってくれた人だ。確かもう一つやってもらったのだがそちらは忘れた。その時は福山(会場忘れました確か小さなホール)京都(確か拾得)
それに東京(新宿の今はない古い方のロフト)の3カ所だった。オーストラリア・ツアーの帰りでスケジュールも限られていたのだが、時代はシンガーソングライターから
ニューウエーブへと言う時代だったから、やってくれる所が東京以外ではこの2カ所だけしかなかった。あの当時福山で外タレのライブなどやってる所はなく、
正直僕も心配だった。それでも福屋さんは頑張ってくれてなんとかやる事ができた.その後もう一回ライブをやってもらって、トムスも倒産して
2度と彼と会う事はなかった。また風の便りに福屋さんが離婚してどこかへ言ってしまったと聞き、
あの2つのライブが原因だったのではと密かに申し訳なく思っていた。そんな彼がジェフの山口のライブに来てくれた.
ライブの後ちょこっと飲んだんだが今は学校の先生をやりつつラジオでDJもやっていて、この間もジェフをかけましたよと言ってくれた。
久しぶりにあの当時の音楽に対する熱い思いを語りまた思い出した。
ああいう熱い思いでライブをやる事が出来ない今,トムスキャビンをやって行く意味が何処にあるのだろうかと考えてしまった。
また今回のツアーの最後はジェフの希望もあって釧路の鶴居村にあるヒッコリーウインドでやった。
オーナーの安藤さんのご好意でジェフ念願のバードウオッチングに僕も付き合って初のバードウオッチングを体験した。
(トムスのサイトにその時の写真が載っているので見てください)小さな沼にカヌーを漕ぎだして鳥のいそうなポイントで静かに
待つのだが、なんと2種類のキツツキを見た。それは非常にラッキーだと安藤さんが言っていたが僕はキツツキを見た事より
その自然の中で音を出さずに耳を澄ますと言う事に感激した。普段音を聞くことを仕事にしていると,また都会に住んでいると
何も音のない世界と言うのをあまり体験する事がない。しゃべり声もなく、カヌーがすーっと水面を走る音や
鳥の鳴き声に耳を澄ませていると、今まで体験した事のない何かを聞こうとする自分の耳と、何も音のしないことの精神的な幸せ感が
入り交じって初めて体験する複雑な気分だった。また気のせいかもしれないが風が水面をなでるような音が聞こえたような気もした。
その時に思いだしたのが高校生時代に学校の旅行で何処だか忘れたが山へ言ったときに
僕ら音楽好き生徒が当時のはやりのトランジスターラジオを聞きながら山道を上っていて担任の先生に『お前等ラジオを聞くのを止せ
ここまで来たら自然の音に耳を傾けろ』と言われてなんにも聞こえねーじゃねーかとふてくされた事を思いだした。
なんにも聞こえない事やかすかに聞こえる自然の音を聞くと言う贅沢を今回ほど感じた事はなかった。
昔、野原でレコーディングしたヘロンのCDを聞きたくなった。
いろんな話が聞けたし,毎日の様にうどんを食べたし、懐かしい人にも会えた。
山口でずっと会いたいと思っていた福屋さんに会えた。福家さんは1980年にやったあの幻の一回目のトニー・ジョー・ホワイトツアーを
福山でやってくれた人だ。確かもう一つやってもらったのだがそちらは忘れた。その時は福山(会場忘れました確か小さなホール)京都(確か拾得)
それに東京(新宿の今はない古い方のロフト)の3カ所だった。オーストラリア・ツアーの帰りでスケジュールも限られていたのだが、時代はシンガーソングライターから
ニューウエーブへと言う時代だったから、やってくれる所が東京以外ではこの2カ所だけしかなかった。あの当時福山で外タレのライブなどやってる所はなく、
正直僕も心配だった。それでも福屋さんは頑張ってくれてなんとかやる事ができた.その後もう一回ライブをやってもらって、トムスも倒産して
2度と彼と会う事はなかった。また風の便りに福屋さんが離婚してどこかへ言ってしまったと聞き、
あの2つのライブが原因だったのではと密かに申し訳なく思っていた。そんな彼がジェフの山口のライブに来てくれた.
ライブの後ちょこっと飲んだんだが今は学校の先生をやりつつラジオでDJもやっていて、この間もジェフをかけましたよと言ってくれた。
久しぶりにあの当時の音楽に対する熱い思いを語りまた思い出した。
ああいう熱い思いでライブをやる事が出来ない今,トムスキャビンをやって行く意味が何処にあるのだろうかと考えてしまった。
また今回のツアーの最後はジェフの希望もあって釧路の鶴居村にあるヒッコリーウインドでやった。
オーナーの安藤さんのご好意でジェフ念願のバードウオッチングに僕も付き合って初のバードウオッチングを体験した。
(トムスのサイトにその時の写真が載っているので見てください)小さな沼にカヌーを漕ぎだして鳥のいそうなポイントで静かに
待つのだが、なんと2種類のキツツキを見た。それは非常にラッキーだと安藤さんが言っていたが僕はキツツキを見た事より
その自然の中で音を出さずに耳を澄ますと言う事に感激した。普段音を聞くことを仕事にしていると,また都会に住んでいると
何も音のない世界と言うのをあまり体験する事がない。しゃべり声もなく、カヌーがすーっと水面を走る音や
鳥の鳴き声に耳を澄ませていると、今まで体験した事のない何かを聞こうとする自分の耳と、何も音のしないことの精神的な幸せ感が
入り交じって初めて体験する複雑な気分だった。また気のせいかもしれないが風が水面をなでるような音が聞こえたような気もした。
その時に思いだしたのが高校生時代に学校の旅行で何処だか忘れたが山へ言ったときに
僕ら音楽好き生徒が当時のはやりのトランジスターラジオを聞きながら山道を上っていて担任の先生に『お前等ラジオを聞くのを止せ
ここまで来たら自然の音に耳を傾けろ』と言われてなんにも聞こえねーじゃねーかとふてくされた事を思いだした。
なんにも聞こえない事やかすかに聞こえる自然の音を聞くと言う贅沢を今回ほど感じた事はなかった。
昔、野原でレコーディングしたヘロンのCDを聞きたくなった。
2008年06月08日
ツアーこぼれ話(ジェフ・マルダーその2)
フリッツ・リッチモンドがラヴィング・スプーンフルの名付け親だと言う事は良く知られているが、ジョン・セバスチャンはフリッツにスプーンフルのメンバーになってほしいと誘ったのだが断られたそうだ。そこでジョン・セバスチャンは背が高くてやせていてフリッツ似のスティーブ・ブーンをベーシストにしたという。これはスプーンフルの事は何でも知っているという昔のグルーピーが言った事だから間違いないよとジェフが言っていた。最終的にジョンはJバンドでフリッツとバンドメーツになったけどあんなに早くフリッツがいなくなるとは思ってなかっただろうな。僕らもそうだけど。
ジム・クエスキンは今では50人以上の社員を使う成功した邸宅コーディネーターだが、バーバラ・ストレイザントから依頼があったと聞いたジェフがかの女はわがままで大変だったでしょうと聞いた所、ジェフ、マリア、リチャード・グリーン、ビル・キース、をまとめてた俺にとってはなんて事はなかったと言ったそうだ。前の3人は分かるけどビル・キースはどうしてなんだろう。まあクエスキン・ジャグバンドのリユニオンコンサートの時、本人は来たのにバンジョーを持ってこなかったなんて話があるからやはり大変だったのかな。
もう一つジムの話、あるときデイビッド・ゲフィンから仕事の依頼が来て会いに行くと、ゲフィンが『昔アルバート・グロスマンの事務所で皆さんがミーティングしているとき隣の部屋にいた若いエージェントを覚えていますか』と聞いたんだそうだ。そういえばいたねとジムが答えると、『当時クエスキン・ジャグバンドのブッキングをしていたのが僕ですよ』と言われて驚いたそうだ。当時のアルバート・グロスマンの事務所はディラン、クエスキン・ジャグバンド、イアンとシルビア、バターフィールド・ブルースバンド、ジャニス・ジョプリン、ザ・バンドと飛ぶ鳥を落とす勢いのあった事務所で、プリンストン大学を卒業したばかりの若きデイビッド・ゲフィンは新入社員としてジムクエスキン・ジャグバンドのブッキングを担当いたと言うお話。今や映画のプロデュースもやっている大物デヴィッド・ゲフィンがウイリアム・モリスというメジャーのエージェンシーにいた事は聞いたことがあるがグロスマンの事務所にいたとは知らなかった。
ジェフが初めてニューオルリンズを訪れたのは1961年だそうだ。
18歳のマルダー少年は一人で彼の幼い頃のアイドルであるニューオルリンズのジャズプレイヤー達の演奏を聴きたくてヒッチハイクでニューオルリンズまで行ったそうだ。お目当てのジョージ・ルイスやキッドなにがし(ニューオルリンズにはキッドという名前のミュージシャンが沢山いたのでジェフが誰の名前を言ったか忘れてしまいましたが)がプリザベーション・ホールで演奏するのを聴きに一ヶ月くらい毎日通ったそうだ。最後にはオーナーがただで入れてくれて彼らの演奏を聞かせてくれたそうだが、多分そこでジョージ・ルイス達が演奏するsomebody stool my girlとかSt Lous Bluesなどを聞いたのだろうな。当然ながらその頃はプロフェッサー・ロングフェアーやDr、ジョンなどはまだ知らなくて、ポップスのファッツ・ドミノ辺りしか知らなかったそうだが、でもこの時の体験がその後の彼の音楽に大きな影響を与えた事は間違いないだろう。18歳でジョージ・ルイスを聴きにニューオルリンズに行くなんてかなりの早熟であり、普通の子供ではなかったのだと思う。
ジム・クエスキンは今では50人以上の社員を使う成功した邸宅コーディネーターだが、バーバラ・ストレイザントから依頼があったと聞いたジェフがかの女はわがままで大変だったでしょうと聞いた所、ジェフ、マリア、リチャード・グリーン、ビル・キース、をまとめてた俺にとってはなんて事はなかったと言ったそうだ。前の3人は分かるけどビル・キースはどうしてなんだろう。まあクエスキン・ジャグバンドのリユニオンコンサートの時、本人は来たのにバンジョーを持ってこなかったなんて話があるからやはり大変だったのかな。
もう一つジムの話、あるときデイビッド・ゲフィンから仕事の依頼が来て会いに行くと、ゲフィンが『昔アルバート・グロスマンの事務所で皆さんがミーティングしているとき隣の部屋にいた若いエージェントを覚えていますか』と聞いたんだそうだ。そういえばいたねとジムが答えると、『当時クエスキン・ジャグバンドのブッキングをしていたのが僕ですよ』と言われて驚いたそうだ。当時のアルバート・グロスマンの事務所はディラン、クエスキン・ジャグバンド、イアンとシルビア、バターフィールド・ブルースバンド、ジャニス・ジョプリン、ザ・バンドと飛ぶ鳥を落とす勢いのあった事務所で、プリンストン大学を卒業したばかりの若きデイビッド・ゲフィンは新入社員としてジムクエスキン・ジャグバンドのブッキングを担当いたと言うお話。今や映画のプロデュースもやっている大物デヴィッド・ゲフィンがウイリアム・モリスというメジャーのエージェンシーにいた事は聞いたことがあるがグロスマンの事務所にいたとは知らなかった。
ジェフが初めてニューオルリンズを訪れたのは1961年だそうだ。
18歳のマルダー少年は一人で彼の幼い頃のアイドルであるニューオルリンズのジャズプレイヤー達の演奏を聴きたくてヒッチハイクでニューオルリンズまで行ったそうだ。お目当てのジョージ・ルイスやキッドなにがし(ニューオルリンズにはキッドという名前のミュージシャンが沢山いたのでジェフが誰の名前を言ったか忘れてしまいましたが)がプリザベーション・ホールで演奏するのを聴きに一ヶ月くらい毎日通ったそうだ。最後にはオーナーがただで入れてくれて彼らの演奏を聞かせてくれたそうだが、多分そこでジョージ・ルイス達が演奏するsomebody stool my girlとかSt Lous Bluesなどを聞いたのだろうな。当然ながらその頃はプロフェッサー・ロングフェアーやDr、ジョンなどはまだ知らなくて、ポップスのファッツ・ドミノ辺りしか知らなかったそうだが、でもこの時の体験がその後の彼の音楽に大きな影響を与えた事は間違いないだろう。18歳でジョージ・ルイスを聴きにニューオルリンズに行くなんてかなりの早熟であり、普通の子供ではなかったのだと思う。
2008年06月03日
ツアーこぼれ話(ジェフ・マルダーその1)
ジェフと話していて驚くのは彼が普段はベートーベンやチェバー・ミュージックを聴いていたり,スピナースのフィリップ・ウインのボーカルがが最高だといったり,アレンジではフィリーサウンドのプロデューサーのトム・ベルからの影響を受けていると言ったり、グランドマスター・フラッシュが出て来たときには驚いたと言ったり,ジュージア・シーアイランダースのアカペラが好きだなど、など、フォークアーチストとの話とは思えない事を毎日聞かされている。まあ 50年代から実際に生で多くの音楽も聴いていたのだしワンダフルタイムなどを聞けば彼が一般的なフォーク歌手とは違うと言う事は分かるのだが、分かっていても彼の音楽的な知識が非常に広範囲に渡っている事に驚かされる。そこら辺が彼が細野君を敬愛する理由だろう。僕も両人の音楽的な知識にいつも驚かされているから二人が対談したらさぞ面白いだろうなといつも思っている。そんな事でディランがやったDJのコンピCDにも驚かされたがジェフの懐の深さにも毎日脅かされている。その中のいくつかの話:彼が7、8歳の頃年上のお兄さんがかけていたSP版でイントロクイズのような事をやっていて兄弟の中では彼が一番早く曲名を当てていたという(シドニー・ベッシエやサッチモなどが好きだったという)
14歳の頃買った初めてのレコードは(78回転のSP)エルドラドスのドーワップだったといった事や同じ頃ハービー&ムーングローズをブルックリンのパラマウント・シアターで見た事とか。
その後入ったプレップ・スクールでルームメートになったワーウック・ボイド(ジョー・ボイドのお兄さん)とレコードを集め始めたこと,その頃のコレクションはワーウイックと一緒に探したジャズのSP,LPが中心で、その後いわゆるジャズの歴史シリーズのLPの中にはいっていたレッドベリーや,ジョシュ・ホワイトを聞いてフォークに興味を持ち始めた事、などなど興味は尽きない。昨日は僕が実家から持って帰って来たシングルレコードの中にあったトリオ・ロス・パンチョスの話をしたときにも、『僕も持っているよ、その後いっぱい出て来たパンチョスじゃなくてオリジナルのね』と言われたのには驚いた。アメリカ人でトリオ・ロス・パンチョスを知っている人は珍しい。
14歳の頃買った初めてのレコードは(78回転のSP)エルドラドスのドーワップだったといった事や同じ頃ハービー&ムーングローズをブルックリンのパラマウント・シアターで見た事とか。
その後入ったプレップ・スクールでルームメートになったワーウック・ボイド(ジョー・ボイドのお兄さん)とレコードを集め始めたこと,その頃のコレクションはワーウイックと一緒に探したジャズのSP,LPが中心で、その後いわゆるジャズの歴史シリーズのLPの中にはいっていたレッドベリーや,ジョシュ・ホワイトを聞いてフォークに興味を持ち始めた事、などなど興味は尽きない。昨日は僕が実家から持って帰って来たシングルレコードの中にあったトリオ・ロス・パンチョスの話をしたときにも、『僕も持っているよ、その後いっぱい出て来たパンチョスじゃなくてオリジナルのね』と言われたのには驚いた。アメリカ人でトリオ・ロス・パンチョスを知っている人は珍しい。
2008年05月22日
ツアーこぼれ話(ヒルマン&ペダーセン)その2
グラム・パーソンズはフロリダという南部生まれだが、大金持ちの息子として生まれハーバード大学へ入学するという彼の経歴の中にサザンソウルの入る余地は無かったと僕は思う。プレスリーを聞いてミュージシャンになりたいと思った彼だが、その後はフォーク、カントリーへと音楽の趣向を変えて行く訳だけど、ジェームス・カーやOV・ライトをあの当時彼が聞いていたとは考えられない。ダン・ペンやスプ−ナー・オルドハムはアラバマの地元で黒人音楽が好きだったから当時黒人しか聞かないそこら辺の音を聞けたのだと思う.(ダン・ペンが当時黒人音楽のラジオ局ばかりを聞いていたと言っていた)つまりよほど黒人音楽が好きでないとそこまでしてその手の音楽を聞かなし聞けないと言う事だ。つまり当時は完全に白人と黒人の聴く音楽は違っていたと思う
確かに当時の南部のスタジオであるフェイムもアメリカンもマッスルシュオールズもミュージシャンはほとんど白人だ.それは彼らが黒人音楽好きの若者達である程度の音楽的な教育を受けていたから出来たのだと思う。
だから多分ラジオから流れてくるカントリーに関してはグラムは聞いていたと思う.それが後にカントリーロックとして出てくる訳だけど,
ソウルは別物だ.ましてやサム・クックやオーティス・レディングだったらまだ可能性はあるがジェームス・カーやOV・ライトはもっと地味な存在だから。グラムがどうしてそういうテープを持っていたのかはクリスも知らなかった。謎は深まるばかりだ。
確かに当時の南部のスタジオであるフェイムもアメリカンもマッスルシュオールズもミュージシャンはほとんど白人だ.それは彼らが黒人音楽好きの若者達である程度の音楽的な教育を受けていたから出来たのだと思う。
だから多分ラジオから流れてくるカントリーに関してはグラムは聞いていたと思う.それが後にカントリーロックとして出てくる訳だけど,
ソウルは別物だ.ましてやサム・クックやオーティス・レディングだったらまだ可能性はあるがジェームス・カーやOV・ライトはもっと地味な存在だから。グラムがどうしてそういうテープを持っていたのかはクリスも知らなかった。謎は深まるばかりだ。
2008年05月21日
ツアーこぼれ話(ヒルマン&ペダーセン)
flying burrito brothers のことでずつと気になっていたことがあったのでクリスに聞いてみた。彼らのアルバムの中にダン・ペンのDark end of street,とDo right womanが入っているのだが、これはなぜ入ったのだろうか?というのがずっと気になっていた。当時ウエストコーストのそれもブルーグラスやカントリー好きの若者がどうしてサザン・ソウルの曲を取り上げたのか?。Flying Burrito Brothersのデビューが 69年。僕は多分スプーナー・オルドハムがその頃ウエストコーストに出てスタジオで活動し始めた時期だと思っていたので多分彼を通して知ったのだと思っていたのだが、そうではなかった。『実はグラム・パーソンズはいろんなテープを持っていて、その中にソウルなどもあって特に彼はスローなソウルが好きだったんだ。その中にああいった曲が入っていてそれでやる事にしたんだ』グラムがソウル好き。初めて聞いたな。あの当時日本はもとよりアメリカでさえサザンソウルそれもジェームス・カーを聞いてる人はほとんど居なかったのではないかと思う。ダン・ペンがプロデュースしたbox tops のレコードが出たのは67年だがカントリー好きの彼らは聞いていなかったそうだ.アレサのDo right womanが出たのもほぼ同じ時期だったと思うが、それだってそれほど話題にならなかったと思う。
うーんそれにしてもグラム・パーソンズ恐るべし。
もう一つ驚きの情報、
そのDo Right WomanをプロデュースしたJerry Waxlerの奥さんがクリスの奥さんのお姉さんという話.だからクリスはジェリーからそのアレサやそのほかのソールシンガー達の話をいっぱい聞いた事があるそうな。なんという偶然。
ついでに僕の情報.今度の25日の日曜日に渋谷のJZ Bratで僕らのウエスタン・スインング・バンド、マディグリーブスとゲストのトミ・藤山さんのライブがあります.この日はいろいろなイベントが重なっていて苦戦しています.ぜひ日曜の夜をカントリーミュージックでお過ごしください。詳しくはhttp://toms-cabin.com/で。
うーんそれにしてもグラム・パーソンズ恐るべし。
もう一つ驚きの情報、
そのDo Right WomanをプロデュースしたJerry Waxlerの奥さんがクリスの奥さんのお姉さんという話.だからクリスはジェリーからそのアレサやそのほかのソールシンガー達の話をいっぱい聞いた事があるそうな。なんという偶然。
ついでに僕の情報.今度の25日の日曜日に渋谷のJZ Bratで僕らのウエスタン・スインング・バンド、マディグリーブスとゲストのトミ・藤山さんのライブがあります.この日はいろいろなイベントが重なっていて苦戦しています.ぜひ日曜の夜をカントリーミュージックでお過ごしください。詳しくはhttp://toms-cabin.com/で。
2008年04月10日
2008年03月04日
ツアーこぼれ話(マリア・マルダー編その2)
1970年初頭、当時マリアは6歳の娘ジェニーを抱えて途方に暮れていた。夫ジェフはポールバターフィールドと“Better Days"を結成しポップスターを夢見て毎日アルコールとクスリに浸る日々。自分の事なんか構わないようなジェフ、また生活自体もかなり厳しかったがまだ彼との生活に未練のあったマリアは自分はドーナツ・ショッップのウエイトレスをやってでも彼を支えて行こうと思っていた。(後にこの事をタイトルにしたアルバムを出した)あるとき彼の気を惹こうと思ってNYのブルックス・ブラザースにシャツを買いに行った。そこで運命的な出会いがあった。当時ワーナーの重役であったモー・オースティンに会ったのだ。息子のサマーキャンプの為の洋服を買いに来ていたモーと話をするうちに当時の彼女状況に話が行き、今はどうしたら良いか分からない状況に有る事を話すと,モーはソロでやる気は有るかと聞いて来た。それまでバンド活動しかしてこなかったし,いつもそばにはセバスチャン、クエスキン、ジェフと言う先生がいて全て彼らが言う様にやってきていたから、自分一人でやれる自信は無かったが、もしかしたらこれでジェフも自分の方に向いてくれるかなと思い,やりたいといってしまった。モーは『じゃオフィスで待っているから後で来る様に』と言って別れた。お金がなかった彼女は友人のデイビッド・ニクターンにお金を借りてタクシーでモーのオフィスに行った。
モーの事務所でソロレコードの話をしたのだが、モーは基本的にそれまでの彼女のやって来た音楽をベースにやろうと言ってくれ,プロデューサーは誰が良いかと聞いて来た。マリアは当時良く聞いていたライ・クーダーのレコード作りに敬意を持っていたので、ああゆうアルバムを作りたいと彼に言うと,モーはその場でレニー・ワーロンカーに電話をして、彼にマリアに興味が有るかと聞いてくれた。ワーロンカーの返事はぜひやりたいと言う事だった。それにマリアの古くからの友人のジョー・ボイドをもう一人のプロデューサーとしてチームに加えてくれた。その後ジェフの女性関係が発覚しマリアは娘のジェニーをつれてウエストコーストに行く事を決心した。『ニューヨークで生まれたのに私は寒いのが嫌いだったの』と笑って言うが、それまではイーストコースト(ニューヨークやボストン)の良き先輩や仲間がサポートしてくれていたが、これからは自分で全てをやらなくてはならなかったから、多分当時の彼女は不安でたまらなかったと思う。暖かいロスアンジェルスは彼女にとってとても住みやすかった。ワーロンカー、ボイドの人脈からロスの凄腕のミュージシャンを集めて行われたレコーディングはトントン拍子に進み誰もが素晴らしいアルバムが出来たと言った。ただワーロンカーはもう一曲ミディアムテンポの曲が欲しいとマリアに言って来た。マリアに遅れてウエストコーストにやって来て彼女の家のソファで寝起きしていたデイビッドが面白い曲を持っていたの思い出しそれをワーロンカーに聞かせた所,面白いと言うので急遽レコーディングされ、あの有名なエイモスのソロも一日でとり終えた。こうしてあのアルバムはリリースされ真夜中のオアシスがヒット。失意のどん底にいたマリアを救ったのだ。
当時を思い出して彼女は『おかしなものね,ジェフの為の買い物が私の人生を変えてくれたの。一時は彼の事を憎んだけど彼が原因であのチャンスが生まれたんだから彼に感謝しなくてはいけないのかもね』と言った。
モーの事務所でソロレコードの話をしたのだが、モーは基本的にそれまでの彼女のやって来た音楽をベースにやろうと言ってくれ,プロデューサーは誰が良いかと聞いて来た。マリアは当時良く聞いていたライ・クーダーのレコード作りに敬意を持っていたので、ああゆうアルバムを作りたいと彼に言うと,モーはその場でレニー・ワーロンカーに電話をして、彼にマリアに興味が有るかと聞いてくれた。ワーロンカーの返事はぜひやりたいと言う事だった。それにマリアの古くからの友人のジョー・ボイドをもう一人のプロデューサーとしてチームに加えてくれた。その後ジェフの女性関係が発覚しマリアは娘のジェニーをつれてウエストコーストに行く事を決心した。『ニューヨークで生まれたのに私は寒いのが嫌いだったの』と笑って言うが、それまではイーストコースト(ニューヨークやボストン)の良き先輩や仲間がサポートしてくれていたが、これからは自分で全てをやらなくてはならなかったから、多分当時の彼女は不安でたまらなかったと思う。暖かいロスアンジェルスは彼女にとってとても住みやすかった。ワーロンカー、ボイドの人脈からロスの凄腕のミュージシャンを集めて行われたレコーディングはトントン拍子に進み誰もが素晴らしいアルバムが出来たと言った。ただワーロンカーはもう一曲ミディアムテンポの曲が欲しいとマリアに言って来た。マリアに遅れてウエストコーストにやって来て彼女の家のソファで寝起きしていたデイビッドが面白い曲を持っていたの思い出しそれをワーロンカーに聞かせた所,面白いと言うので急遽レコーディングされ、あの有名なエイモスのソロも一日でとり終えた。こうしてあのアルバムはリリースされ真夜中のオアシスがヒット。失意のどん底にいたマリアを救ったのだ。
当時を思い出して彼女は『おかしなものね,ジェフの為の買い物が私の人生を変えてくれたの。一時は彼の事を憎んだけど彼が原因であのチャンスが生まれたんだから彼に感謝しなくてはいけないのかもね』と言った。