『その1もあります』
そういう状況の中から出て来たのがニューヨークのグリーンブライアー・ボーイズであり、ボストンのチャールズ・リヴァー・ヴァリー・ボーイズ、ジム・ルーニーとビル・キースなどだ。彼らが都会から出て来たブルーグラス・バンドのハシリとなった。同じ時期にウエストコーストで活動していたのが、後にザ・バーズに入るギタリスト、クラレンス・ホワイトが居たケンタッキー・カーネルズだ。当時、ビル・モンローやフラット&スクラッグスが東部や西部の都会に行く事はほとんどなかったようで、その代 わりと言ってはなんだが、しっかりしたマネージング会社がついていたNLCRは定期的にウエス
トコーストへ出かけていたらしい。これは僕の想像だが、ニューヨークからシカゴ、デンバー(ここにも有名なフォークロアセンターがあった)ロス、サンフランシスコといったツアーだったのではないかと思う。各地2、3日で場所は小さいコーヒーハウス。例えばロスは「アッシュ・グローブ」というコーヒーハウスのみに出演したらしい。というよりもそのくらいのオーディエンスしか居なかったのだろう。
僕も1967年にアッシュ・グローブでNLCRを見たが、後で聞くと、デヴィッド・リンドレーもライ・クーダーも、リチャード・グリーンもダート・バンドのジョン・マッキュインも、そしてカーネルズの連中も皆、そこにいたらしい。いってみれば当時、フォークやブルーグラスに興味を持っていた若者が皆そこに行っていたという事らしい。それほど「生」でこの手の音楽が聴けるチャンスがウエストコーストには少なかったという事だろう。
また、ヴィデオも小型テープレコーダーもない時代に、実際に見聞きするというのが、彼らミュージシャンにとって一番の勉強だったということです。だから本物の南部のブルーグラスが聞きたい若者は車で大陸横断してバージニアやケンタッキーのフィドラーズ・コンベンションや野外ステージのあるミュージック・パークなどに行っていたらしい。ブルーグラス少年だったジェリー・ガルシアとビル・モンロー命だったニュージャージーのデイビッド・グリスマンが最初にあったのも、確か南部ノース・カロライナ州のユニオン・グローヴで行なわれたフィドルコンベンションだったと聞いたことがある。
とにかく、いまほど情報網が発達していなかった当時、特にこの手のマニアックな音楽の情報が伝わるのにはタイムラグがあったようだ。
2008年12月04日
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