2008年06月08日

ツアーこぼれ話(ジェフ・マルダーその2)

フリッツ・リッチモンドがラヴィング・スプーンフルの名付け親だと言う事は良く知られているが、ジョン・セバスチャンはフリッツにスプーンフルのメンバーになってほしいと誘ったのだが断られたそうだ。そこでジョン・セバスチャンは背が高くてやせていてフリッツ似のスティーブ・ブーンをベーシストにしたという。これはスプーンフルの事は何でも知っているという昔のグルーピーが言った事だから間違いないよとジェフが言っていた。最終的にジョンはJバンドでフリッツとバンドメーツになったけどあんなに早くフリッツがいなくなるとは思ってなかっただろうな。僕らもそうだけど。

ジム・クエスキンは今では50人以上の社員を使う成功した邸宅コーディネーターだが、バーバラ・ストレイザントから依頼があったと聞いたジェフがかの女はわがままで大変だったでしょうと聞いた所、ジェフ、マリア、リチャード・グリーン、ビル・キース、をまとめてた俺にとってはなんて事はなかったと言ったそうだ。前の3人は分かるけどビル・キースはどうしてなんだろう。まあクエスキン・ジャグバンドのリユニオンコンサートの時、本人は来たのにバンジョーを持ってこなかったなんて話があるからやはり大変だったのかな。

もう一つジムの話、あるときデイビッド・ゲフィンから仕事の依頼が来て会いに行くと、ゲフィンが『昔アルバート・グロスマンの事務所で皆さんがミーティングしているとき隣の部屋にいた若いエージェントを覚えていますか』と聞いたんだそうだ。そういえばいたねとジムが答えると、『当時クエスキン・ジャグバンドのブッキングをしていたのが僕ですよ』と言われて驚いたそうだ。当時のアルバート・グロスマンの事務所はディラン、クエスキン・ジャグバンド、イアンとシルビア、バターフィールド・ブルースバンド、ジャニス・ジョプリン、ザ・バンドと飛ぶ鳥を落とす勢いのあった事務所で、プリンストン大学を卒業したばかりの若きデイビッド・ゲフィンは新入社員としてジムクエスキン・ジャグバンドのブッキングを担当いたと言うお話。今や映画のプロデュースもやっている大物デヴィッド・ゲフィンがウイリアム・モリスというメジャーのエージェンシーにいた事は聞いたことがあるがグロスマンの事務所にいたとは知らなかった。

ジェフが初めてニューオルリンズを訪れたのは1961年だそうだ。
18歳のマルダー少年は一人で彼の幼い頃のアイドルであるニューオルリンズのジャズプレイヤー達の演奏を聴きたくてヒッチハイクでニューオルリンズまで行ったそうだ。お目当てのジョージ・ルイスやキッドなにがし(ニューオルリンズにはキッドという名前のミュージシャンが沢山いたのでジェフが誰の名前を言ったか忘れてしまいましたが)がプリザベーション・ホールで演奏するのを聴きに一ヶ月くらい毎日通ったそうだ。最後にはオーナーがただで入れてくれて彼らの演奏を聞かせてくれたそうだが、多分そこでジョージ・ルイス達が演奏するsomebody stool my girlとかSt Lous Bluesなどを聞いたのだろうな。当然ながらその頃はプロフェッサー・ロングフェアーやDr、ジョンなどはまだ知らなくて、ポップスのファッツ・ドミノ辺りしか知らなかったそうだが、でもこの時の体験がその後の彼の音楽に大きな影響を与えた事は間違いないだろう。18歳でジョージ・ルイスを聴きにニューオルリンズに行くなんてかなりの早熟であり、普通の子供ではなかったのだと思う。
posted by 麻田 at 18:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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