2008年03月27日

SXSWその1

10日に日本を発ちオースティン入りをしたのだがおとといまで毎日乗り打ちのツアーが続きSXSWと言うコンベンションのことを書けなかったので今日一気に書いた。この後も今回のSXSWのことを書きますので興味のある方は呼んでください。

今回のSXSWの中でセミナーと言う音楽業界に関する勉強会のような催しの中に、ぜひ見ておきたかったセミナーがあった。サイアーレコードの創始者セイモア・ステインのインタビューだ。アーメット・アーティガンやジェリー・ウエクスラーと言った人達は40年代の後半にはアトランティックというレコード会社をスタートしていたから僕らの一つ前の世代の人だが、セイモアは確か42年生まれだから,僕と同世代の人と言える。サイアーと言うレーベルを立ち上げて,フォーガットで最初のヒットをものにしてその後ラモーンズ、トーキング・へッズ、マドンナと言ったアーチストと契約して70年代、80年代のインディーレーベルを営業的に成功させた人だ。個人的なことを言うとトムス・キャビンでイギリスのニューウエーブ路線を始めた後、アメリカにも素晴らしいグループがいると知って,トーキングヘッズ,B-52s,そしてラモーンズ等の初期のアメリカンパンクと言うかニューウエーブ路線をやるときに非常に助けてもらった。トムスがグラハム・パーカーや。エルヴィス・コステロをやっているのを知ってか、当時売り出し始めたトーキング・ヘッヅのジャパンツアーを僕に任せてくれたのだ。まあ当時まだウドーやキョウドウがその手の音楽をを知らなかった事もあるのだろうが,とにかく何度も電話をかけて来て、取材のことを細かく言ったり、飛行機代の援助等をしてもらったりその行動力の素早さと、決断の早さに驚いた。そこら辺はコステロの時のジェイク・リビエラと言うマネージャーと同じで、それまでのレコード会社の対応とは違う直接的な対応に新鮮さを感じたものだった。そんなことで彼にはトーキングヘッズのツアーで多大な協力をしてもらった。今にして思えば、その大きな要因は彼自身がインデイ−ス出身だったからで、多分トムスにその匂いを感じ取ってくれたのではないかと思う。
そこら辺のことも含めて今回のインタビューは僕にとって非常に興味があって参加した。ロックの殿堂入りした数少ない裏方と言う事もあってか開場は満員だった。60も半ばを過ぎたサイモアは何処にでもいる人の良いお爺さんと言う風情で登場し、紹介者が彼を紹介すると満場スタンディングオベーションで彼を迎えた。ビデオでさらっとサイアーの歴史を見た後、司会者がインタビューすると言う形でセミナーは始まった。先ず彼の音楽経歴だが子供の頃から音楽が好きでいつもラジオを聞いていたらしい。もちろん当時のヒットポップスが中心だったらしいが,白人の子供にしては随分と黒っぽい音楽を聴いていたらしい。黒っぽいと言ってもグループものやドワップを中心としたヒットチャートに上るようなものだったらしいが。その後高校生のときにキングレコードの社長シド・ネイサンと知り合い2年ほど当時会社があったシンシナティに住み,彼についてレコードビジネスの全てを教わったらしい。と言うよりも会社に人が少なく全てをやらなければいけなかったらしい。ニューヨークのブルックリンで生まれ育った彼が、シンシナティに行き,まあ当時は,C&W,そしてブルーグラス、また当時まだレース・ミュージックと言われていたブルース、R&Bと言った音楽をを中心にリリースしてていたレコード会社に入るのはよほど音楽が好きだったのだろう。彼の口から当時のアーチスト名のホークショウ・ホーキンス、カウボーイ.コーパス、レノ&スマイリー、スタンリーブラザースなどのカントリーブルーグラス勢,そしてロイ・ブラウン、チャンピオン・ジャック・ヂュプリー、ハンクバラード&ミッドナイタース、アイボリー・ジョーハンターがすらすらと出て来たことを見てもその音楽好きが伺い知れる。
僕らの世代にとってキングの王冠マークは良いレコードの証だったから僕自身もキングというレーベル名だけで買ったレコードが何枚もある。シンシナティからニューヨークに戻った彼は友人と一緒にサイアーレコードを設立する。メジャーレコード会社の様な予算も無かったセイモアは,どういうジャンルの音楽を中心にリリースして行くか悩んだようだ。自分が目指していたアトランティックレコードはR&Bのヒットを量産していたし,ヴァンガードやエレクトラはフォークを完全に押さえていたし,もちろんメジャーレコード会社はポップスのヒットを出しまくっていた時代だし、ビートルズを始めとするイギリス勢は日の出の勢いだったしとセイモアは当時のアメリカのインディーレーベルの苦しさを語っていた。そして制作費のかからないデストリビュートを中心としたレコードビジネスをする為にイギリスに渡り,アーチスト探しを始める。そしてクライマックスブルースバンドやフォーガットと契約しアメリカでヒットさせたのだ。ヒットが出て経済的にも余裕ができた頃出会ったのがラモーンズだった。CBGBで彼らを見たサイモアはすぐに契約し、レコードの製作をし、リリースした。ラモーンズが契約したということでニューヨークのバンドはサイヤーという会社に注目し多くのバンドが契約をしたがったらしいが彼が次に選んだのがトーキングヘッズ。ラモーンズは一日で契約にこぎ着けたがトーキングヘッズは契約まで何ヶ月もかかったと笑って話していたが、トーキングヘッズもメジャーでないサイアーと契約したかったに違いないと僕は思う。あのころ音学的な理解度、人間的な素晴らしさ,またビジネスに対する勘の良さでセイモア・ステインにかなう人はいなかったと思うからだ。インタビューは時間が無くなりマドンナのこと、アイス・T,デペッシュ・モード等その後のアーチスト、メジャーとの仕事などについては簡単に触れるにとどまったが、彼はその後ワーナーの重役にまででなって成功したが、その後またインディに戻って製作をやったと聞いた様に思う。根っからの音楽好きなんだと思う。
セイモアとのことでもう一つ個人的なことを言わせてもらえると、ずっと前にブルータスのNY特集の音楽のページに関わらせてもらって、当時の編集の小黒さんという人からとにかく今NYで面白いと思うアーチストを4,5人取材してくださいと言われ、当時NYにいてブルータスに記事を送っていた深谷君と言う人と人選をしたのだが、まだシングルを1枚しか出していなくて2枚目を出すマドンナという女の子のシンガーが面白いんじゃないかということになった。イタリア系の娘なのに黒っぽい雰囲気で歌う娘で美人ということだけど、海のものとも山のものとも分からないから、皆でどうしようかということになったのだが、彼女をサイアーが売りたいと思っているという話を聞いてセイモアがやってるんだったら是非やろうよと僕と深谷君で押して取材をした。彼女の自宅へ皆で行って写真をとりまくって記事にしたのだが、半年後だったか1年後だったか,彼女はライカ・バージンで一躍大スターになった。まあ当時の記事が彼女のキャリア作りに貢献できたとは思えないが、個人的にはトムス時代の借りをセイモアに少しは返せたかなと思ったものだ。ちなみにその時の他の取材はローリー・アンダーソン、フィリップ・グラス(当時まだタクシーの運転手をしてました)DBsと言った人達でした。今回のセミナーの後そのトーキングヘッズ時代のお礼を言ったら、そうか君かといって懐かしがってくれた。
posted by 麻田 at 14:54| Comment(0) | TrackBack(0) | music
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