2008年12月04日

その2

『その1もあります』
 そういう状況の中から出て来たのがニューヨークのグリーンブライアー・ボーイズであり、ボストンのチャールズ・リヴァー・ヴァリー・ボーイズ、ジム・ルーニーとビル・キースなどだ。彼らが都会から出て来たブルーグラス・バンドのハシリとなった。同じ時期にウエストコーストで活動していたのが、後にザ・バーズに入るギタリスト、クラレンス・ホワイトが居たケンタッキー・カーネルズだ。当時、ビル・モンローやフラット&スクラッグスが東部や西部の都会に行く事はほとんどなかったようで、その代 わりと言ってはなんだが、しっかりしたマネージング会社がついていたNLCRは定期的にウエス
トコーストへ出かけていたらしい。これは僕の想像だが、ニューヨークからシカゴ、デンバー(ここにも有名なフォークロアセンターがあった)ロス、サンフランシスコといったツアーだったのではないかと思う。各地2、3日で場所は小さいコーヒーハウス。例えばロスは「アッシュ・グローブ」というコーヒーハウスのみに出演したらしい。というよりもそのくらいのオーディエンスしか居なかったのだろう。
 僕も1967年にアッシュ・グローブでNLCRを見たが、後で聞くと、デヴィッド・リンドレーもライ・クーダーも、リチャード・グリーンもダート・バンドのジョン・マッキュインも、そしてカーネルズの連中も皆、そこにいたらしい。いってみれば当時、フォークやブルーグラスに興味を持っていた若者が皆そこに行っていたという事らしい。それほど「生」でこの手の音楽が聴けるチャンスがウエストコーストには少なかったという事だろう。
 また、ヴィデオも小型テープレコーダーもない時代に、実際に見聞きするというのが、彼らミュージシャンにとって一番の勉強だったということです。だから本物の南部のブルーグラスが聞きたい若者は車で大陸横断してバージニアやケンタッキーのフィドラーズ・コンベンションや野外ステージのあるミュージック・パークなどに行っていたらしい。ブルーグラス少年だったジェリー・ガルシアとビル・モンロー命だったニュージャージーのデイビッド・グリスマンが最初にあったのも、確か南部ノース・カロライナ州のユニオン・グローヴで行なわれたフィドルコンベンションだったと聞いたことがある。
 とにかく、いまほど情報網が発達していなかった当時、特にこの手のマニアックな音楽の情報が伝わるのにはタイムラグがあったようだ。
posted by 麻田 at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

最近書いた事60年代の米国音楽状況その1

近況報告せよと言うミキシーからのおしかりで人のところに書いたものでかなりマニアックですけど載せます。
その1、(続きはそのうち)

 1960年当時の音楽産業の中心はなんと言っても東海岸だった。中心はニューヨーク、それに比較的近くのボストンによりアカデミックな音楽シーンがあり、シカゴがそれに続くという状況だった。
 西海岸はというと、やはり中心はサンフランシスコ(バークレーを含む)だった。クリス・ストラックウィッツのアーフリー・レコードもシスコの近くだった(当時の場所は知らないが、3年ほど前にお店に言ったら本人はしごく元気そうだった)。ロスアンジェルスには映画会社のワーナー・ブラザースから独立したW-B Recordsがあったが当初はポップスやサウンドトラック中心で、あまりアカデミックな動きはなかった。西海岸の老舗レコード会社のキャピタル・レコードもビートルズが出てくる前まではポップスとカントリー、それにランディー・ニューマンのおじさんのアッルフレッド・ニューマンなどの書く映画音が中心のレコード会社だった。ただフォーク界最大のヒット曲と
なったキングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」はサンフランシスコで結成されたグループがロスのキャピタル・レコードからリリースしたレコードだった。

 というような状況の中、カレッジフォーク以外のトラディショナルフォーク、ブルース、ブルーグラスといったルーツ音楽は東海岸中心に広まって行った。その中心地がグリニッチビレッジのワシントン・スクエアーだった。そこでは週末に多くのニューヨーク在住のアーティスト/ミュージシャンが集まりジャムをして情報交換をしていた。
 バンジョーに関して言えば当時最高のプレーヤーといわれたロジャー・スプラング(当時、ニューヨークでただ一人、スクラッグス・スタイルのスリーフィンガースタイルのバンジョーが弾けたという人。シャンティボーイズ/フォークウエイズにバンジョーのレコード有り)、エリック・ダーリング(タリアーズ〜ウイーバーズ〜ルーフトップシンガース)、ディック・ワイズマン(ジャーニーメン)、エリック・ワイズバーグ(グリーンブライアー・ボーイズ〜タリアーズ)等が有名で、ほとんどのプレーヤーはアール・スクラックスを生で見た事さえなかったと言う。
 そういう中でトラディショナルな音楽をニューヨークに紹介したのが、『Friends Of Old Time Music』 (彼らがやったコンサートの未発表音源が聴ける3枚組CD集『Friends of Old Time Music: The Folk Arrival』がスミソニアン・フォークウェイズから出ている)という組織だった。1957年にグリニッチビレッジに開店したフォークローセンターというフォーク専門のお店の経営者、イージー・ヤング、プロモーターで後にジュディ・コリンズ他のマネージャーになるハロルド・レーベンソル、当時若手のフォークローリストでニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ(NLCR)のジョン・コーヘン、グリーンブライアー・ボーイズのラルフ・リンズラー他の人達が中心になってFOTMでドック・ワトソン、ロスコー・ホルカム、フレッド・マクダウエル、ビル・モンロー、メイベル・カーター、ミシシッピ・ジョン・ハートといった、当時南部以外ではライブをやった事のない人達のコンサートをニューヨークでやった。
posted by 麻田 at 15:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記