2008年12月25日

ライブ三昧/その3 ムーンライダース

もう随分前の事になってしまったが3日続けてのライブの最後はムーンライダースでした。メンバー全員そろそろ還暦に近づいて(慶一氏もアラ6なんて言ってましたが)演奏もキャラクターも余裕を感じさせてくれた。というか60才に近くなって未だにCDを作り新しい事に挑戦していて、変に年寄りじみず、かといって俺たち年だけど頑張ってるぜという押しつけがましさも無く,このくらいの演奏はいつでもやってやるぜと言うような普通な感じが凄く良かった。WHO もKINKSもSTONESも何気ない様にライブを続けているがその実、皆、健康管理とか体調維持には気を使っているはずだ。でもそれをステージで見せないところがベテラン達の凄いとろで、あまりこの年齢層の日本のバンドを見た事が無いが、(まあ数日前にオレンジカウンティーブラザースを見たが、彼らも我が道を行くという感じで頼もしかった)ライダースのメンバーも自分たちの立ち位置を分って健康管理も演奏力の維持もきちっとやっているのだろうなと感じた。
また普段のプロデュースやミュージシャンとしてのそれぞれの個人的な仕事が,良い意味でムーンライダースというバンドにとってプラスになっているんだろうと思った。全員そろったライダースを見たのは多分10年ぶりくらいだと思うが久しぶりに聞いた白井良明のギターが凄く良かったし、あうんの呼吸というのか全員がここではライダースをやるんだと言う気持ちが凄く感じられた音になっていたと思う。バンドは長く続けて行く事が難しいといわれているが,ここまで来たら全員60歳を過ぎても活動して欲しいなと思う。
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2008年12月15日

ライブ三昧/その2 山崎直也トリビュート

二日目は横浜のサムズアップでの山崎直也のトリビュートライブ。彼ともいろんな事をやろうといってたのに何も出来なかった。彼が亡くなる数ヶ月前に友人と最近山崎君見ないねと話したのだが多分その頃彼は病魔と闘っていたんだろうな。そのライブの時にもいったのだが最近の批評家の人で見た事もないのに見たような事を書く人がいて(こういう時代だからインターネットで調べればだいたいの事が分ってしまう)ああいうのはどうかと思うという話からその点山崎はすぐに見に行くから凄いよなあと彼の名前がでたのだ。
彼がアメリカから帰ってくるとよく電話をくれて何処そこに若いけど凄いのがいますよとか,これこれと言うCDが良いですよとか,テキサスや南部の僕の知らないマイナーな情報を教えてくれた。最近僕がやりたいと思っているアーチストのWayne Hancockの事も彼と二人で盛り上がったことがあった。
それといつかイナタイ感じのバンドやろうよという話も実現できなかった。僕は良く彼になんで飯を食っているの?と冗談めかして聞いたのだが,麻田さんも養老院のホストをしてるっていう噂がありますよといって切り返されたりした。
ライブは彼の友人達総動員という感じで僕も,島田耕御大と一緒にジャンバラヤを歌わせてもらった。あの山崎君のトリビュートらしく友人達によるゆるいあったかいライブだった。誰かがいっていたが今頃はダグサムやフレディー・フェンダーとセッションしてるんだろうな。それにしても彼の居なくなった今誰があそこら辺の音楽の評論したり紹介したりするのだろうか。
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2008年12月11日

ライブ三昧/その1篠田正己生誕50歳コンサート

3日間続けてライブへいった。こんな事は何十年ぶりだ。

月曜日は篠ちゃんこと篠田正己生誕50歳コンサートへ行った。それはJAGATARAのOTOのミクシーで知った。
吉祥寺のスターパインカフェの客席はほぼ一杯だった。篠ちゃんが亡くなってから16年もたつのにこうして仲間が集まって
彼の事を思い出しながら演奏すると言うなんかあったかいライブだった。そこで昔知ってた人にも何人もあった。
僕にとっての篠チャンはJAGATARAの篠ちゃんでその他の篠ちゃんをあまり知らなかったが昨日のライブや映像で僕のしらない
篠ちゃんを知ることができた。彼と知り合うきっかけになったJAGATARAを教えてくれたのはカメラマンの桑元君か
イラストレーターの八木君のどちらかだった。最初のライブはどっかの学園祭だったが僕は彼らが凄く気に入って
その後も何度か彼らのライブを見に行たりした。そのうちOTOとアケミが相談があると行って事務所に来て
インディーズでは予算的に自分たちの作りたいレコードが作れないからメジャーでやりたいし
マネージングを頼みたいと言う話だったが、その頃はシオン,コレクターズ、コシミハルなどをやっていて
手が足りなかったせいもあってマネージングは出来ないけどといってBMGレコードを紹介した。
そして彼らはBMGで『それから』と言うアルバムを作った。そのレコーディングの途中でミックスをゴドウィン・ロギーでやりたいという話になって
そのコーディネートをしてOTOとアケミ夫妻と4人でパリへ行った。パリでのアケミは凄く楽しそうだった。
その後レコード発売のライブとか何回かのライブの後帰る方向が同じだったので
何度か篠ちゃんを送って行った。にこやかな顔で音楽に対する思いや社会の不条理などを熱く語ってくれた。
その中でいまでも覚えているのは当時彼が入れ込んでいたチンドンを外国に連れて行きたいという彼の思いだった。
そのことはその後も何度か聞いた.でも僕はその後あまりジャガタラとの接触がなくなって、篠ちゃんとチンドンが外国へ行けたかどうかは知らない。
そしてアケミ,ナベちゃん、そして篠ちゃんの死で事実上ジャガタラはなくなってしまった。僕はいまでもときどき『それから』を聞きながら
メジャーのレコード会社を紹介しなかった方が良かったのではと思ったりする。
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2008年12月04日

その2

『その1もあります』
 そういう状況の中から出て来たのがニューヨークのグリーンブライアー・ボーイズであり、ボストンのチャールズ・リヴァー・ヴァリー・ボーイズ、ジム・ルーニーとビル・キースなどだ。彼らが都会から出て来たブルーグラス・バンドのハシリとなった。同じ時期にウエストコーストで活動していたのが、後にザ・バーズに入るギタリスト、クラレンス・ホワイトが居たケンタッキー・カーネルズだ。当時、ビル・モンローやフラット&スクラッグスが東部や西部の都会に行く事はほとんどなかったようで、その代 わりと言ってはなんだが、しっかりしたマネージング会社がついていたNLCRは定期的にウエス
トコーストへ出かけていたらしい。これは僕の想像だが、ニューヨークからシカゴ、デンバー(ここにも有名なフォークロアセンターがあった)ロス、サンフランシスコといったツアーだったのではないかと思う。各地2、3日で場所は小さいコーヒーハウス。例えばロスは「アッシュ・グローブ」というコーヒーハウスのみに出演したらしい。というよりもそのくらいのオーディエンスしか居なかったのだろう。
 僕も1967年にアッシュ・グローブでNLCRを見たが、後で聞くと、デヴィッド・リンドレーもライ・クーダーも、リチャード・グリーンもダート・バンドのジョン・マッキュインも、そしてカーネルズの連中も皆、そこにいたらしい。いってみれば当時、フォークやブルーグラスに興味を持っていた若者が皆そこに行っていたという事らしい。それほど「生」でこの手の音楽が聴けるチャンスがウエストコーストには少なかったという事だろう。
 また、ヴィデオも小型テープレコーダーもない時代に、実際に見聞きするというのが、彼らミュージシャンにとって一番の勉強だったということです。だから本物の南部のブルーグラスが聞きたい若者は車で大陸横断してバージニアやケンタッキーのフィドラーズ・コンベンションや野外ステージのあるミュージック・パークなどに行っていたらしい。ブルーグラス少年だったジェリー・ガルシアとビル・モンロー命だったニュージャージーのデイビッド・グリスマンが最初にあったのも、確か南部ノース・カロライナ州のユニオン・グローヴで行なわれたフィドルコンベンションだったと聞いたことがある。
 とにかく、いまほど情報網が発達していなかった当時、特にこの手のマニアックな音楽の情報が伝わるのにはタイムラグがあったようだ。
posted by 麻田 at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

最近書いた事60年代の米国音楽状況その1

近況報告せよと言うミキシーからのおしかりで人のところに書いたものでかなりマニアックですけど載せます。
その1、(続きはそのうち)

 1960年当時の音楽産業の中心はなんと言っても東海岸だった。中心はニューヨーク、それに比較的近くのボストンによりアカデミックな音楽シーンがあり、シカゴがそれに続くという状況だった。
 西海岸はというと、やはり中心はサンフランシスコ(バークレーを含む)だった。クリス・ストラックウィッツのアーフリー・レコードもシスコの近くだった(当時の場所は知らないが、3年ほど前にお店に言ったら本人はしごく元気そうだった)。ロスアンジェルスには映画会社のワーナー・ブラザースから独立したW-B Recordsがあったが当初はポップスやサウンドトラック中心で、あまりアカデミックな動きはなかった。西海岸の老舗レコード会社のキャピタル・レコードもビートルズが出てくる前まではポップスとカントリー、それにランディー・ニューマンのおじさんのアッルフレッド・ニューマンなどの書く映画音が中心のレコード会社だった。ただフォーク界最大のヒット曲と
なったキングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」はサンフランシスコで結成されたグループがロスのキャピタル・レコードからリリースしたレコードだった。

 というような状況の中、カレッジフォーク以外のトラディショナルフォーク、ブルース、ブルーグラスといったルーツ音楽は東海岸中心に広まって行った。その中心地がグリニッチビレッジのワシントン・スクエアーだった。そこでは週末に多くのニューヨーク在住のアーティスト/ミュージシャンが集まりジャムをして情報交換をしていた。
 バンジョーに関して言えば当時最高のプレーヤーといわれたロジャー・スプラング(当時、ニューヨークでただ一人、スクラッグス・スタイルのスリーフィンガースタイルのバンジョーが弾けたという人。シャンティボーイズ/フォークウエイズにバンジョーのレコード有り)、エリック・ダーリング(タリアーズ〜ウイーバーズ〜ルーフトップシンガース)、ディック・ワイズマン(ジャーニーメン)、エリック・ワイズバーグ(グリーンブライアー・ボーイズ〜タリアーズ)等が有名で、ほとんどのプレーヤーはアール・スクラックスを生で見た事さえなかったと言う。
 そういう中でトラディショナルな音楽をニューヨークに紹介したのが、『Friends Of Old Time Music』 (彼らがやったコンサートの未発表音源が聴ける3枚組CD集『Friends of Old Time Music: The Folk Arrival』がスミソニアン・フォークウェイズから出ている)という組織だった。1957年にグリニッチビレッジに開店したフォークローセンターというフォーク専門のお店の経営者、イージー・ヤング、プロモーターで後にジュディ・コリンズ他のマネージャーになるハロルド・レーベンソル、当時若手のフォークローリストでニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ(NLCR)のジョン・コーヘン、グリーンブライアー・ボーイズのラルフ・リンズラー他の人達が中心になってFOTMでドック・ワトソン、ロスコー・ホルカム、フレッド・マクダウエル、ビル・モンロー、メイベル・カーター、ミシシッピ・ジョン・ハートといった、当時南部以外ではライブをやった事のない人達のコンサートをニューヨークでやった。
posted by 麻田 at 15:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記