2008年08月27日

鎌倉で浜徳太郎展を見る。

さて翌日はO氏と奥さんが作ってくれた朝食を食べた後O氏と二人で鎌倉自転車散歩としゃれてみた。
さすが鎌倉の自転車。サビでブレーキが大きな音をたてる。それでもおかまいなしに二人していろいろなとこを回った。
まずは昨日いけなかった浜先生の写真展をやっているお店へ。そこは佐助にあるブンブン紅茶店と言うお店でオーナーの方が僕が一番欲しいと思っているランチャのオーレリアをもっていらっしゃる。それも実物は見た事がないがラリー仕様みたいだ。また以前にメールのやり取りをした時に浜先生の写真展をやりますといってらしたのでそれもぜひ見たかったので訪ねてみた。おいしいイギリス風の紅茶を飲みながら浜先生の車の写真を見た。解説もあってとても楽しめた。そうしたら今日浜先生の息子さんが来て先生の車について話をしますよと聞いたので狭山に帰る前によって行こうと思った。その後O氏と二人で葉山マリーナまで走ったり、友人のK氏宅を訪ねたり、バンクの隣にあるしゃれたお店にもよってO氏宅に戻ったが、鎌倉は自転車で回るのにちょうど良いサイズの街だ。ちょっと休んで,江の電で七ヶ浜へ行きO氏お気に入りのイタリア料理店へ。江の電の駅のすぐそばの小さなお店だが、そこでおいしい遅いランチを食べてまた江の電でO氏宅へ戻った。
時間になったのでO氏宅を出てブンブンへ行った。そんなに大きなお店ではないがかなりの人が集まっていた。
そこではランチャの事に詳しい方にも紹介していただいた。その会の詳しい事はいろいろな方が御書きなので省略するが、浜さんの二時間半ほどのお話で僕は高校生の時代へタイムとリップさせていただいた。そしてすごく幸せな気分で狭山まで帰った。
その浜先生と僕の事を少し書いてみたい。
浜先生の事を初めて知ったのは僕が高校生になるので親が定期購読して良いといってくれて購読を始めたモーターマガジンと言う雑誌だった。その最初にとったモーターマガジン、1960年の2月号は僕にいろんな意味で大きな影響を与えてくれた。この号の特集が”炉端の楽しみ、自動車エンスージストの横顔”と言う記事で,世の中にはこんな人達がいるんだと中学生の僕は驚いた。そのエンスージアストと言う言葉はいまでこそエンスーと略されて多くの人が使っているが、こんな言葉を知らなかった中学生にとっては初めて聞く言葉だった。辞書でensu---と言う風に引いていっても出てこない。その後に enthuse,enthusiasm,等と言う言葉が見つかり,その名詞型でenthusiast(熱心家)などと言う妙な言葉が見つかり、なるほどこの人達は自動車に夢中な人達なんだと言うことがわかった。その特集の書き手は浜先生を始めとして高岸清、小林彰太郎、五十嵐平逹といったその後の自動車雑誌で原稿を書いていらっしゃる方達だった。
その12人の自動車熱心家が語る話は、カタログ、ミニチュアカーなどの収集、修理、レストア,写真撮影などそれぞれの好みが出てとても面白い記事だった。その中に浜先生のお宅にあるある古い自動車群の写真が載っていた。あれは確かランチア・ラムダやドラージュ、ブガッティ,イスパノスイザといった初めて聞く名前の車ばかりだった。その中で僕が知っていたのはロールスロイスだけだった。その後高校へ入学した僕は同じ自動車好きの友人と、この家へいって自動車を見せてもらおうよといろいろ手を尽くして浜先生の事を調べたが今の様に情報が簡単に手に入らず,やっと友人のお兄さんが先生は三鷹に住んでいるらしいと言う情報を教えてくれた。そこで僕らは三鷹駅で降りて交番で聞いたりタクシーの運転手に聞いたりして半日ほど探したが、とうとう見つけられなかった。
その2月号でもう一つ僕にとって重要な記事はランチャ・フラミニアの記事だった。
当時ピニン・ファリナの名前を知っている人はそういなかったはずだと思うが、彼のデザインしたフラミニアが輸入され特集されていたのだ。子供心にかっこいい車だなと思い五十嵐平逹さんの自動車形態ノート(この記事もその後ずっと愛読していた)にも載っていたような2トーンに塗り分けたフラミニア(写真はフロリダか)を将来買いたいなと思った。
話がすこしそれてしまったが,僕は浜先生を通して,古い車に対する興味を持った事は間違いない。そんな意味では偶然に息子さんの浜さんのお話が聞けた事はとても嬉しかった。それが出来たのもOさん宅へ行く事になったからでOさんに重ねて感謝。
posted by 麻田 at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月25日

クオードの運び屋

先週の土、日はクオードESL仲間の運び屋として久しぶりに充実した(2日間の外泊と多少飲み過ぎがありましたが)2日間でした。
先ず金曜日にノイズの出ている自分のESLを車に積んで会社に行き、その夜は仕事の後新浦安のW氏宅へ。そこで彼自慢の装置で
ブライアン・ウイルソンのトリビュートを大画面と良い音で見聞きする。おいしいビールとつまみ,それからおいしいワイン。
すっかりいい気持ちになって氏が原稿を書いているのに寝てしまう。
翌日は修理の終わったもう1台のESLを積んで朝の8時半に一路玉川学園へ出発。すいてる東関東から首都高速そして東名に乗り、緑で降りてN氏宅へ。世界広しと言えどESLのサラウンドはここだけだろうと言う装置を聞く。このESLがまたすごく良い音。JBLなんかの固めの音はもう良いやとクオードのゆるい音に親しんでいる僕もこれがクオード?と言った感じの音に圧倒された。かといってJBLなんかの辛い音ではなく(昔はマランツにJBLといったアメリカの装置でレコードを聴いていたので、別にJBLが嫌いな訳でなく、年相応の音楽の聞き方がしたくなってそれがクオードだったと言う事です。誤解しないでください)僕の許容範囲の音でした。それにしても電源コードで音が変わる事まで体験して自分のオーディオへの努力の足りなさを感じました。ただ今はゆるいクオードで満足しています。
そこを出て今度は一路横須賀へ。246から16号へ出て横横を終点まで。M氏宅はすぐ分って修理なったESLを降ろす。そこで再びESLを聞く。こちらは純粋のESLの音。やはり落ち着くな。
M氏に僕の405のDC漏れをチェックしてもらうと片方だけ異常に漏れが多い。原因が分かるまでしばらく使わない様にしよう。
さてM氏宅を後に今度はいざ鎌倉へ。と言うのはO氏と言う狭山の友人の稲村ケ崎の別荘が完成したのでその日はそこに泊めていただく事にしていたので鎌倉で時間つぶし。久しぶりの鎌倉の人の多さに驚く。僕らがよく遊んでいた高校、大学の時代はこんなに人はいなかった。それにあらゆるお店があって正に観光地。友人のやっているカフェへ行きコーヒーを。ほんとはそこから浜徳太郎先生(車がお好きな方だが大学の先生だから皆そう呼んでいるのでしょう)の浜徳太郎と彼をめぐる自動車写真展と言うのをやっているお店に行きたかったのだが電話が通じず明日直接いく事にした。O氏と奥さんがこられるのが遅い時間だというのでそれまでの時間つぶしに友人が随分前にオープンしたBankと言うバーへ。車は駐車場に入れて稲村までは歩きかタクシーで行けば良いやとビールを飲み始めたら,なんとそこへマーチンギターを扱っている会社のF氏が入って来てなんでと言う事で盛り上がってしまった。普段は東京で仕事で会うくらいで(5,6年前は共通の友人Y氏と毎日の様に朝まで飲んだのに)このところご無沙汰していたから一気に盛り上がってしまい,彼の会社の鎌倉在住の方も見えて皆で食事に10分くらい歩いた所のお店へ。そこで有機野菜の天ぷらとかアジアン風のおいしい料理を食べて今度また何かやりたい根と話は多いに盛り上がったのですが(酔っぱらってもいました),O氏が鎌倉に到着して僕を迎えに来てくれましたのでO氏宅へ。おまけに停めておけばいいやと思った僕の車まで彼が運転してくれて別荘へ。そこで窓から海が見えるお風呂に入らせていただいて夢のような気分の内、僕は轟沈。(Oさん済みませんでした)。長い一日でした。
posted by 麻田 at 18:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2008年08月19日

もっとベースを/ジェリー・ウエクスラー

ジェリー・ウエクスラーが亡くなった。91歳だから大往生でしょう。最近はフロリダで悠々自適の生活をしていたらしい。彼はサイアーレコードのセイモー・ステイン並んで、僕が最も尊敬するプロデューサーだった。ビルボードの調査員やライター(多分売り上げなどをチェックしたり記事を書いたりする仕事)だった頃レイス・レコード(人種レコード)レイス・チャ−トと言う言葉に変えてリズム&ブルースと言う言葉を作り出したのが彼だ。
確か98年だったと思うがトムス・キャビンのコンサート再開する当たってマッスル・シヨールズのオールスターズをやりたくてダニー・フリッツをアラバマへ訪ねた。彼に3614 Jacson highwayにあったオリジナルのマッスル・シヨールズ・スタジオや確か水道局の施設だったと言う新しい方のスタジオに連れて行ってもらった。その頃はマラコがスタジオを買い取っていたのだが名前はまだマッスルシュオールズスタジオだった。
そこでデイヴィッド・フッドやロジャー.ホーキンズを紹介してもらった。スタジオにはパーシー・スレッジやストーンを始めとするジェリー・ウエクスラーがプロデュースしたR&Bのレコーが壁にかけてあった。ダニーに僕が一番尊敬するプロヂューサーだよと言うと、そうかじゃあ後で電話して見ようと言った。ダニーのうちへ帰って(その日は彼のうちに泊めてもらったのです)夕食の後ダニーが電話してくれて,遠い日本から君を尊敬すると言う人が来てるよと言って電話を渡された。とっさの事で何を話したかは良く覚えていないのだが『あなたがやって来た仕事は最高です』みたいな事を言った。
NY生まれでユダヤ人の血を引く彼が同じくヨーロッパ人のアーテガン兄弟と作ったアトランティックレコードがアメリカを代表するR&Bのレーベルを作リ、素晴らしいレコードを生み出し、ストーンズまで所属したいと思わせる大きなレーベルになった事は、僕ら音楽に携わるものとして大きな励みになったものです。そう思っているのは僕だけかもしれないけど。彼をを追悼したNYタイムスにの記事に、墓石に何か書くとしたらなんて書きますかと言う問いに『More Bass』(ベースをもっと)と言うのが彼らしくていい。最後にこれは訳されていると良いのだけどジェリーウエクスラーの伝記本があります。タイトルが Rhythm and the Blues.
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2008年08月04日

矢野顕子とマーク・リボ

マーク・リボが来日して電話をくれた.飯でもと言うので恵比寿ですしを食べた。ダイエットしなきゃと言いながらかなり食べてた.NYの音楽事情をいろいろと教えてくれた。今回は矢野顕子とのコラボだそうだ.明日くるよねと初日のライブに誘ってくれたので金曜日に見に行った。
矢野顕子とマーク・リボ。一見合いそうにない組み合わせだが多分面白いと思った僕の予感は的中してかなり面白かった。矢野顕子もジャズ出だし、マークは何でもありでアルバート・アイラー好きだ。矢野顕子の超テクノピアノにマークの変態ギターが絡む,何とも言えないバランスで演奏される曲はこれまた変化にとんでいて面白い.僕は矢野顕子のソロは武道館で見た何曲かだけだったのだが,彼女の選曲と人を引きつけるヴォーカルにすっかり陶酔してしまった。でも何が驚いたって,彼女が大好きなjimmy Dale Guilmoreの曲と言ってSaginaw Michigan(60年代のレフティ・フリゼルのヒット曲、彼女もカントリーが好きなんだって)をやったのには驚いた,それと矢野顕子がギルモアのファンとは驚いた。ただ彼女はこの曲は1930年代の曲と言っていたが確かビル・アンダーソンと誰かが書いた曲だから60年代の曲だと思う.この曲はノベルティだがこの曲で見事カンバックしたレフティにとっては記念の曲だ。マークはここでバンジョーを弾いてカントリー色を出していた。途中マークのギターソロをはさんでのショーは久しぶりに見たプロの仕事(だけど退屈ではなかった)。まさに僕にとって聞かずに死ねるかだった。今日もやってるようだけどもう遅いよね。
posted by 麻田 at 19:22| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記