クリス・ヒルマンとハーブ・ペダーソンのツアー以来バック・オーエンスの事が気になっていたところボックスセットが出ているのを知って買った。
ボックスセットと言うのは値段的には高いのだが中にブックレットが入っていて今まで知らなかった事がたくさん書いてあるのでついつい買ってしまう。
今回もあたらしい発見がいくつかあった。
多分僕がバック・オーエンスを最初に聞いたのはFENでかかったunder your spell againが最初だったと思う.多分1959年か60年、彼の最初のビッグヒットだ。
ナシュビルでなくウエストコーストはロスアンジェルスの北、ベーカースフィールドから出て来たカントリー・シンガーと言う事で雑誌などでも取り上げられて、かなり注目を浴びていたのがバック・オーエンスだった。その後その流れはマール・ハガードそしてドワイト・ヨーカムへと続いて行く。
ベーカーズフィールドがあるSan Juaquin Valleyは大恐慌の時代に多くの仕事を求めた人達が(ほとんどはお百姓だったが)オクラホマ、テキサス、アーカンソーと言った州から移って来た場所で、彼らの楽しみのひとつがカントリーミュージックだった。そういう事でバック・オーエンス以前にもベーカーズ・フィールドにはウイン・スティアート、トミー・コリンズ(ハンサムで当時日本でもかなり人気があった。確かかまやつさんもトミーの漬け物娘もしくはピックル娘?を歌っていたと思う)と言ったカントリー・シンガーがいたがベーカーズフィールド・サウンドと言う確固たるものを確立したのはバック・オーエンスだ。
その頃、僕の音楽的興味はカントリーやブルーグラスからフォークへ代わっていたので、カントリーはFENでしか聞かなくなっていた時期だったが
そのunder your spell againの後,ビートルスも取り上げたAct NatulallyそしてLoves gonna live hereを聞いた時は、それまでのカントリーにはなかったかっこ良さみたいなものと驚きをを感じた。多分それはナッシュビル製のカントリーにない乾いた都会的な歯切れの良い音だと思ったのだろう。
なぜかは分らないが僕が当時好きだったカントリー・シンガー達はワンダ・ジャクソン、ファーリン・ハスキー、トミー・コリンズといったウエストコーストの人が多かった.彼らは皆キャピタルレコードの専属だった。キャピタル・レコードは初のウエストコーストのレーベルとして40年代にソングライターのジョニー・マーサー等によって設立されたレーベルだ。50年代からマーケット的に大きくなったカントリー畑にも進出して来た.
ただ他のほとんどのレーベルがナッシュビルでレコード製作したのにキャピトルのカントリーレコードははケン・ネルソンと言うプロデューサーのもと
ロス・アンジェルスで作られた。ケン・ネルソンは先にあげた人の他にハンク・トンプソンやたぶんマール・トラヴィスなどのプロデュースもしている。
例のハリウッドにあるトウモロコシみたいな形をしたキャピタル・タワービルの中にある(確かではないが多分)スタジオでレコーディングされたのだと思う。
ケン・ネルソンはトミー・コリンズのバックでエレキを弾いていたバック・オーエンスを気に入り数々のレコーディングセッションに彼を使った。
当時ナシュビルと違ってロス周辺でカントリーを演奏できるプロのミュージシャンは少なかったらしく(ジミー・ブライアントとスピーディ・ウエスト.マール・トラヴィス等は別だが多分スタイルが確立されていて使いにくかったのだと思う)、歌手ファーリン・ハスキーなんかもレコーディングでリードギターを弾いていたと言う。ケン・ネルソンはバック・オーエンスに単なるバック・ミュージシャン以上の才能を感じて彼をキャピタルレコードでカントリー・シンガーとしてデビューさせる.それがunder your spell againとなったのだ。
それ以後バック・オーエンスは立て続けにヒットを出し60年代をを代表するカントリーシンガーとなった。最初は彼自身がリードを弾いていたようだが若いドン・リッチがバンドに加入しエレキとフィドルそれにトレードマークのハイパートハーモニーをする様になり,ベイカーズ・サウンドを確立し、カーネギーホールでも演奏するくらい名実共にカントリー界のビッグスターとなった。僕自身は70年代半ばにバックの日本ツアーで司会兼ロードマネージャーとしてツアーに参加した。確かその時はもうドン・リッチは亡くなっていて女性のフィドラーがついて来た,多分彼女はバックの2番目の奥さんになった人だと思う。made in Japan と言うヒット曲の後だったと思うが若干ラスベガス風のショーにちょっとがっかりした事を覚えている。
もう一つこのボックスセットでよく分かったのが、僕が好きなソングライターのハーレン・ハワード(Harlan Howard)との事だ。
実はハーレン・ハワードの事を最初に知ったのもバック・オーエンスのアルバムBuck Owens sings Harlan Hawardだった。ハワードの最初のヒット曲はチャーリー・ウオーカーのPick Me Up on Your Way Down。その後はレイ・プライスのHeartaches By The Number、パツイ・クラインのI Fall to Pieces,ボビー・ベアーのStreets of Baltimoreと数えきれない。数年前に亡くなったハーレン・ハワードはナッシュビルを代表するソングライターだったが、50年代は誰も彼の書く曲に興味を示してくれずソングライターとして身を立てようとロスアンジェルに向かった.カントリーソングのライターならナッシュビルだと思うのだが当時ナシュビル周辺には産業がなく食べて行く為にはロスの方が仕事があると思いロスに移住したらしい。そしてそこでバックと知り合い一緒に曲を書く様になった。ただ二人の共作でのヒットは以外と少ない。
チャーリー・ウオーカーやレイ・プライスのヒットでハーレンは念願かなってナシュビルに移って行くのだが,彼がソングライターとして売れる前、彼の曲をバックの出版社で買い取ったりと経済的にも援助をしていたようだ。
このボックスセットは1964年までのものなので多分もう一枚というかもう1ボックスセットが発売されると思うがやはり買ってしまいそうだな。
これを書いてる時にミュージックマガジンにライ・クーダーの記事が載っていると言うので読んだが,彼も僕と同じような少年時代を送っていたようなので(作家ハーレン・ハワードやウイリー・ネルソンにも触れているしホンキー・トンクについても書いている)次はそれについて書こう。