2008年03月04日

ツアーこぼれ話(マリア・マルダー編その2)

1970年初頭、当時マリアは6歳の娘ジェニーを抱えて途方に暮れていた。夫ジェフはポールバターフィールドと“Better Days"を結成しポップスターを夢見て毎日アルコールとクスリに浸る日々。自分の事なんか構わないようなジェフ、また生活自体もかなり厳しかったがまだ彼との生活に未練のあったマリアは自分はドーナツ・ショッップのウエイトレスをやってでも彼を支えて行こうと思っていた。(後にこの事をタイトルにしたアルバムを出した)あるとき彼の気を惹こうと思ってNYのブルックス・ブラザースにシャツを買いに行った。そこで運命的な出会いがあった。当時ワーナーの重役であったモー・オースティンに会ったのだ。息子のサマーキャンプの為の洋服を買いに来ていたモーと話をするうちに当時の彼女状況に話が行き、今はどうしたら良いか分からない状況に有る事を話すと,モーはソロでやる気は有るかと聞いて来た。それまでバンド活動しかしてこなかったし,いつもそばにはセバスチャン、クエスキン、ジェフと言う先生がいて全て彼らが言う様にやってきていたから、自分一人でやれる自信は無かったが、もしかしたらこれでジェフも自分の方に向いてくれるかなと思い,やりたいといってしまった。モーは『じゃオフィスで待っているから後で来る様に』と言って別れた。お金がなかった彼女は友人のデイビッド・ニクターンにお金を借りてタクシーでモーのオフィスに行った。
モーの事務所でソロレコードの話をしたのだが、モーは基本的にそれまでの彼女のやって来た音楽をベースにやろうと言ってくれ,プロデューサーは誰が良いかと聞いて来た。マリアは当時良く聞いていたライ・クーダーのレコード作りに敬意を持っていたので、ああゆうアルバムを作りたいと彼に言うと,モーはその場でレニー・ワーロンカーに電話をして、彼にマリアに興味が有るかと聞いてくれた。ワーロンカーの返事はぜひやりたいと言う事だった。それにマリアの古くからの友人のジョー・ボイドをもう一人のプロデューサーとしてチームに加えてくれた。その後ジェフの女性関係が発覚しマリアは娘のジェニーをつれてウエストコーストに行く事を決心した。『ニューヨークで生まれたのに私は寒いのが嫌いだったの』と笑って言うが、それまではイーストコースト(ニューヨークやボストン)の良き先輩や仲間がサポートしてくれていたが、これからは自分で全てをやらなくてはならなかったから、多分当時の彼女は不安でたまらなかったと思う。暖かいロスアンジェルスは彼女にとってとても住みやすかった。ワーロンカー、ボイドの人脈からロスの凄腕のミュージシャンを集めて行われたレコーディングはトントン拍子に進み誰もが素晴らしいアルバムが出来たと言った。ただワーロンカーはもう一曲ミディアムテンポの曲が欲しいとマリアに言って来た。マリアに遅れてウエストコーストにやって来て彼女の家のソファで寝起きしていたデイビッドが面白い曲を持っていたの思い出しそれをワーロンカーに聞かせた所,面白いと言うので急遽レコーディングされ、あの有名なエイモスのソロも一日でとり終えた。こうしてあのアルバムはリリースされ真夜中のオアシスがヒット。失意のどん底にいたマリアを救ったのだ。
当時を思い出して彼女は『おかしなものね,ジェフの為の買い物が私の人生を変えてくれたの。一時は彼の事を憎んだけど彼が原因であのチャンスが生まれたんだから彼に感謝しなくてはいけないのかもね』と言った。
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ツアーこぼれ話(マリア・マルダー編)

マリアはニューヨークそれもリトル・イタリーやビレッジ周辺と言うニューヨークのダウンタウンで生まれ育った。仕事をしていた母親が忙しかったので時々マリアを妹さんに預けていたそうだ。その妹さんと言うのがイタリア系の人には珍しくカントリー・ウエスタンが好きでラジオやレコードで当時のカントリーのヒット曲を良く聞いていたそうでマリアも知らず知らずに,ハンク・ウイリアムスや,ロイ・エイカフ,アーネスト・タブ等を聞きそれに合わせて歌う様になって行ったそうだ。彼女が7歳のあるとき皆が集まったときに初めてキティ・ウエルスのヒット曲“It Wasin't God Who Made Honky Tonk Angels"を歌った。(この唄はハンク・トンプソンのWild Side Of Life のアンサーソングとしてキティ・ウエルスが歌って大ヒットした曲だが,ただキティ・ウエルスのヒットは1952年,彼女はもう10歳になっているはず,まあ人の記憶なんてそんなものですが)その唄を聞いたマリアの母親は激怒したそうだ。唄の好きなマリアには出来ればオペラ歌手になってほしいと思っていたお母さんにしてみれば当然だ。でもその後も母親の期待を裏切る様に、彼女はカントリー、フォーク、ブルースとオペラからはどんどん遠ざかって行ったのは皆さんも良くご存知だろう。でもこれだけ成功したのだからお母さんも今は良かったと思っているのでは。
彼女曰く、『私の声がひっくり返るファルセット唱方は当時良く聞いていたカントリー、特にハンク・ウイリアムスの影響が大きいの』マリアとハンクの思わぬ関係でした。
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