2008年03月31日

SXSWその2、ヴァン・モリソン他

SXSWのことがよくわからないと言う方がいたので簡単に説明。SXSWは毎年3月の第2週の週末に行われる音楽のコンベンションで、アメリカはもちろん世界でも1.2を争う大きな音楽コンベンションだ。SXSはセミナー、ライブ、展示会の3つの要素で成り立っていて、午前中から夕方までがセミナーと展示会、8時からがライブというスケジュールで運営されている。ライブは8時から9時、10時、11時、12時、1時と時間の始まりから40分のステージがやく30会場、つまり1日約180組のアーチストがライブをやる。SXSWの参加者は自分の見たいアーチストを時間ごとに決めて20分のセットチェンジの間に次の開場に移動する。そんな中、今年僕が見たかったのはヴァン・モリソン、ワズ・ノット・ワズ、スワローカルテット・ウイズ・ベラ・フレック、ボビー・ホワイトロック、ドリー・パートン、バディ・ミラー、ヨラテンゴ、マーサ・ウエインライト、アサイラム・ストリート・スパンカース、ダニエル.ラノイ、シド・ストロー、クエブ・シスターズと言った所だったが、自分が関わっている日本のアーチストのライブも見たり手伝ったりしなければいけないので見れたのはワズノットワズ、スパンカース、スワローカルテットウイズベラフレック、クエブ・シスターズと言ったとこだった。ヴァン・モリソンは時間的に3時間くらいの枠だったので、見れると思って1時間くらい遅れ行ったらもう終ってた。ここら辺がヴァン・モリソンのヴァン・モリソンらしい所だが残念だった。でもワズ・ノット・ワズは来日公演を見逃していたので絶対見たかったので満杯になる前にと思い、かなり早く行ったら意外にすいていた。スマッシングマグの花房氏と会い顔を合わせるなり『客少ないね』とお互いに言ってしまった。92年以来のライブということで昔のデトロイト時代のメンバーかと思ったが何人かは若い人達だった。でもスイート・ピー・アトキンスを中心とするボーカル隊がそろい、フリも決めてかっこいい。バンドもあまり熱くならずに、きちっとファンクサウンドを聴かせてくれた。Gラブのラップは無かったものの、papa was a rolin' stoneが聞けただけでも満足なのに、後から後からかっこ良い大人のファンク・サウンド(こんな言葉は無いと思うが)を聴かせてくれた。Don Was は多分最近はプロデユース業で忙しくてでライブをやっていないせいか、後ろに下がって常にニコニコしてベースを弾いていた。ライブが楽しくてしょうが無いと言う表情が見て取れた。ほんとは最後まで見たかったのだが沢野ひとし画伯のお気に入りのステールギター奏者、シンディ・キャシュダラーが同じ時間に他でやっていたので後ろ髪を引かれる思いで開場を後にして彼女を見にいった。(シド・ストローもSXSWに来てたから出たのだろうな)でも考えたらワズノットワズのファンクの後にスティールギターを聞きに行くなんて言うのはSXSWでなくては出来ないことだろう。キャシュダラーは確かウッドストックの生まれだが今はオースティンをベースに活動しているようだ。残念ながら今回は他の女性シンガーソングライター達との共演でドブロとラップスティールのみ。それでもつぼを得たバックはさすがだ。自身も何曲かインストを演奏したが、女性スティールギター奏者としてはというより男性に交じってもトップクラスのステールギタープレーヤーであることは間違いない演奏を聴かせてくれた。出来ればロイ・ベンソンと組んでの来日なんて言うのが一番ですよね。沢野さん。
そのほかはスワローカルテットが噂に違わぬ素晴らしい演奏だった。ベラはどちらかと言うとバックに回る演奏だったがさすがという演奏だった。だが驚いたのはアビーのヴォーカルの素晴らしさだった。チェロ奏者とのコーラスもばっちり。フレイリングのバンジョウを弾きながらこれほどの唄が唱えるかというほど素晴らしいヴォーカルだった。そして今回来日の話も含めて2度ほど会ったのがQuebe Sisters.若い美人3人姉妹がフィドルを弾いて唱うのだがフィドルは完全なテキサスフィドル。スイング調の唄もアンドリュー・シスターズを思わせるくらいきれいにハモル。あの若さと美貌ででウエスターン・スイングやスイングジャズを演奏し歌う。祇園さん早く共演しようね。
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2008年03月27日

SXSWその1

10日に日本を発ちオースティン入りをしたのだがおとといまで毎日乗り打ちのツアーが続きSXSWと言うコンベンションのことを書けなかったので今日一気に書いた。この後も今回のSXSWのことを書きますので興味のある方は呼んでください。

今回のSXSWの中でセミナーと言う音楽業界に関する勉強会のような催しの中に、ぜひ見ておきたかったセミナーがあった。サイアーレコードの創始者セイモア・ステインのインタビューだ。アーメット・アーティガンやジェリー・ウエクスラーと言った人達は40年代の後半にはアトランティックというレコード会社をスタートしていたから僕らの一つ前の世代の人だが、セイモアは確か42年生まれだから,僕と同世代の人と言える。サイアーと言うレーベルを立ち上げて,フォーガットで最初のヒットをものにしてその後ラモーンズ、トーキング・へッズ、マドンナと言ったアーチストと契約して70年代、80年代のインディーレーベルを営業的に成功させた人だ。個人的なことを言うとトムス・キャビンでイギリスのニューウエーブ路線を始めた後、アメリカにも素晴らしいグループがいると知って,トーキングヘッズ,B-52s,そしてラモーンズ等の初期のアメリカンパンクと言うかニューウエーブ路線をやるときに非常に助けてもらった。トムスがグラハム・パーカーや。エルヴィス・コステロをやっているのを知ってか、当時売り出し始めたトーキング・ヘッヅのジャパンツアーを僕に任せてくれたのだ。まあ当時まだウドーやキョウドウがその手の音楽をを知らなかった事もあるのだろうが,とにかく何度も電話をかけて来て、取材のことを細かく言ったり、飛行機代の援助等をしてもらったりその行動力の素早さと、決断の早さに驚いた。そこら辺はコステロの時のジェイク・リビエラと言うマネージャーと同じで、それまでのレコード会社の対応とは違う直接的な対応に新鮮さを感じたものだった。そんなことで彼にはトーキングヘッズのツアーで多大な協力をしてもらった。今にして思えば、その大きな要因は彼自身がインデイ−ス出身だったからで、多分トムスにその匂いを感じ取ってくれたのではないかと思う。
そこら辺のことも含めて今回のインタビューは僕にとって非常に興味があって参加した。ロックの殿堂入りした数少ない裏方と言う事もあってか開場は満員だった。60も半ばを過ぎたサイモアは何処にでもいる人の良いお爺さんと言う風情で登場し、紹介者が彼を紹介すると満場スタンディングオベーションで彼を迎えた。ビデオでさらっとサイアーの歴史を見た後、司会者がインタビューすると言う形でセミナーは始まった。先ず彼の音楽経歴だが子供の頃から音楽が好きでいつもラジオを聞いていたらしい。もちろん当時のヒットポップスが中心だったらしいが,白人の子供にしては随分と黒っぽい音楽を聴いていたらしい。黒っぽいと言ってもグループものやドワップを中心としたヒットチャートに上るようなものだったらしいが。その後高校生のときにキングレコードの社長シド・ネイサンと知り合い2年ほど当時会社があったシンシナティに住み,彼についてレコードビジネスの全てを教わったらしい。と言うよりも会社に人が少なく全てをやらなければいけなかったらしい。ニューヨークのブルックリンで生まれ育った彼が、シンシナティに行き,まあ当時は,C&W,そしてブルーグラス、また当時まだレース・ミュージックと言われていたブルース、R&Bと言った音楽をを中心にリリースしてていたレコード会社に入るのはよほど音楽が好きだったのだろう。彼の口から当時のアーチスト名のホークショウ・ホーキンス、カウボーイ.コーパス、レノ&スマイリー、スタンリーブラザースなどのカントリーブルーグラス勢,そしてロイ・ブラウン、チャンピオン・ジャック・ヂュプリー、ハンクバラード&ミッドナイタース、アイボリー・ジョーハンターがすらすらと出て来たことを見てもその音楽好きが伺い知れる。
僕らの世代にとってキングの王冠マークは良いレコードの証だったから僕自身もキングというレーベル名だけで買ったレコードが何枚もある。シンシナティからニューヨークに戻った彼は友人と一緒にサイアーレコードを設立する。メジャーレコード会社の様な予算も無かったセイモアは,どういうジャンルの音楽を中心にリリースして行くか悩んだようだ。自分が目指していたアトランティックレコードはR&Bのヒットを量産していたし,ヴァンガードやエレクトラはフォークを完全に押さえていたし,もちろんメジャーレコード会社はポップスのヒットを出しまくっていた時代だし、ビートルズを始めとするイギリス勢は日の出の勢いだったしとセイモアは当時のアメリカのインディーレーベルの苦しさを語っていた。そして制作費のかからないデストリビュートを中心としたレコードビジネスをする為にイギリスに渡り,アーチスト探しを始める。そしてクライマックスブルースバンドやフォーガットと契約しアメリカでヒットさせたのだ。ヒットが出て経済的にも余裕ができた頃出会ったのがラモーンズだった。CBGBで彼らを見たサイモアはすぐに契約し、レコードの製作をし、リリースした。ラモーンズが契約したということでニューヨークのバンドはサイヤーという会社に注目し多くのバンドが契約をしたがったらしいが彼が次に選んだのがトーキングヘッズ。ラモーンズは一日で契約にこぎ着けたがトーキングヘッズは契約まで何ヶ月もかかったと笑って話していたが、トーキングヘッズもメジャーでないサイアーと契約したかったに違いないと僕は思う。あのころ音学的な理解度、人間的な素晴らしさ,またビジネスに対する勘の良さでセイモア・ステインにかなう人はいなかったと思うからだ。インタビューは時間が無くなりマドンナのこと、アイス・T,デペッシュ・モード等その後のアーチスト、メジャーとの仕事などについては簡単に触れるにとどまったが、彼はその後ワーナーの重役にまででなって成功したが、その後またインディに戻って製作をやったと聞いた様に思う。根っからの音楽好きなんだと思う。
セイモアとのことでもう一つ個人的なことを言わせてもらえると、ずっと前にブルータスのNY特集の音楽のページに関わらせてもらって、当時の編集の小黒さんという人からとにかく今NYで面白いと思うアーチストを4,5人取材してくださいと言われ、当時NYにいてブルータスに記事を送っていた深谷君と言う人と人選をしたのだが、まだシングルを1枚しか出していなくて2枚目を出すマドンナという女の子のシンガーが面白いんじゃないかということになった。イタリア系の娘なのに黒っぽい雰囲気で歌う娘で美人ということだけど、海のものとも山のものとも分からないから、皆でどうしようかということになったのだが、彼女をサイアーが売りたいと思っているという話を聞いてセイモアがやってるんだったら是非やろうよと僕と深谷君で押して取材をした。彼女の自宅へ皆で行って写真をとりまくって記事にしたのだが、半年後だったか1年後だったか,彼女はライカ・バージンで一躍大スターになった。まあ当時の記事が彼女のキャリア作りに貢献できたとは思えないが、個人的にはトムス時代の借りをセイモアに少しは返せたかなと思ったものだ。ちなみにその時の他の取材はローリー・アンダーソン、フィリップ・グラス(当時まだタクシーの運転手をしてました)DBsと言った人達でした。今回のセミナーの後そのトーキングヘッズ時代のお礼を言ったら、そうか君かといって懐かしがってくれた。
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2008年03月04日

ツアーこぼれ話(マリア・マルダー編その2)

1970年初頭、当時マリアは6歳の娘ジェニーを抱えて途方に暮れていた。夫ジェフはポールバターフィールドと“Better Days"を結成しポップスターを夢見て毎日アルコールとクスリに浸る日々。自分の事なんか構わないようなジェフ、また生活自体もかなり厳しかったがまだ彼との生活に未練のあったマリアは自分はドーナツ・ショッップのウエイトレスをやってでも彼を支えて行こうと思っていた。(後にこの事をタイトルにしたアルバムを出した)あるとき彼の気を惹こうと思ってNYのブルックス・ブラザースにシャツを買いに行った。そこで運命的な出会いがあった。当時ワーナーの重役であったモー・オースティンに会ったのだ。息子のサマーキャンプの為の洋服を買いに来ていたモーと話をするうちに当時の彼女状況に話が行き、今はどうしたら良いか分からない状況に有る事を話すと,モーはソロでやる気は有るかと聞いて来た。それまでバンド活動しかしてこなかったし,いつもそばにはセバスチャン、クエスキン、ジェフと言う先生がいて全て彼らが言う様にやってきていたから、自分一人でやれる自信は無かったが、もしかしたらこれでジェフも自分の方に向いてくれるかなと思い,やりたいといってしまった。モーは『じゃオフィスで待っているから後で来る様に』と言って別れた。お金がなかった彼女は友人のデイビッド・ニクターンにお金を借りてタクシーでモーのオフィスに行った。
モーの事務所でソロレコードの話をしたのだが、モーは基本的にそれまでの彼女のやって来た音楽をベースにやろうと言ってくれ,プロデューサーは誰が良いかと聞いて来た。マリアは当時良く聞いていたライ・クーダーのレコード作りに敬意を持っていたので、ああゆうアルバムを作りたいと彼に言うと,モーはその場でレニー・ワーロンカーに電話をして、彼にマリアに興味が有るかと聞いてくれた。ワーロンカーの返事はぜひやりたいと言う事だった。それにマリアの古くからの友人のジョー・ボイドをもう一人のプロデューサーとしてチームに加えてくれた。その後ジェフの女性関係が発覚しマリアは娘のジェニーをつれてウエストコーストに行く事を決心した。『ニューヨークで生まれたのに私は寒いのが嫌いだったの』と笑って言うが、それまではイーストコースト(ニューヨークやボストン)の良き先輩や仲間がサポートしてくれていたが、これからは自分で全てをやらなくてはならなかったから、多分当時の彼女は不安でたまらなかったと思う。暖かいロスアンジェルスは彼女にとってとても住みやすかった。ワーロンカー、ボイドの人脈からロスの凄腕のミュージシャンを集めて行われたレコーディングはトントン拍子に進み誰もが素晴らしいアルバムが出来たと言った。ただワーロンカーはもう一曲ミディアムテンポの曲が欲しいとマリアに言って来た。マリアに遅れてウエストコーストにやって来て彼女の家のソファで寝起きしていたデイビッドが面白い曲を持っていたの思い出しそれをワーロンカーに聞かせた所,面白いと言うので急遽レコーディングされ、あの有名なエイモスのソロも一日でとり終えた。こうしてあのアルバムはリリースされ真夜中のオアシスがヒット。失意のどん底にいたマリアを救ったのだ。
当時を思い出して彼女は『おかしなものね,ジェフの為の買い物が私の人生を変えてくれたの。一時は彼の事を憎んだけど彼が原因であのチャンスが生まれたんだから彼に感謝しなくてはいけないのかもね』と言った。
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ツアーこぼれ話(マリア・マルダー編)

マリアはニューヨークそれもリトル・イタリーやビレッジ周辺と言うニューヨークのダウンタウンで生まれ育った。仕事をしていた母親が忙しかったので時々マリアを妹さんに預けていたそうだ。その妹さんと言うのがイタリア系の人には珍しくカントリー・ウエスタンが好きでラジオやレコードで当時のカントリーのヒット曲を良く聞いていたそうでマリアも知らず知らずに,ハンク・ウイリアムスや,ロイ・エイカフ,アーネスト・タブ等を聞きそれに合わせて歌う様になって行ったそうだ。彼女が7歳のあるとき皆が集まったときに初めてキティ・ウエルスのヒット曲“It Wasin't God Who Made Honky Tonk Angels"を歌った。(この唄はハンク・トンプソンのWild Side Of Life のアンサーソングとしてキティ・ウエルスが歌って大ヒットした曲だが,ただキティ・ウエルスのヒットは1952年,彼女はもう10歳になっているはず,まあ人の記憶なんてそんなものですが)その唄を聞いたマリアの母親は激怒したそうだ。唄の好きなマリアには出来ればオペラ歌手になってほしいと思っていたお母さんにしてみれば当然だ。でもその後も母親の期待を裏切る様に、彼女はカントリー、フォーク、ブルースとオペラからはどんどん遠ざかって行ったのは皆さんも良くご存知だろう。でもこれだけ成功したのだからお母さんも今は良かったと思っているのでは。
彼女曰く、『私の声がひっくり返るファルセット唱方は当時良く聞いていたカントリー、特にハンク・ウイリアムスの影響が大きいの』マリアとハンクの思わぬ関係でした。
posted by 麻田 at 12:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記